倭の五王の讃・珍兄弟と済・興・武父子の間には血縁関係はなかった可能性がある。武が雄略と言われているがその前は対応が不明確である。武烈のあとの継体は直接の血縁関係がなく、応神の五世代子孫とはされているものの、新たな王朝が新羅からもたらされた可能性もあるとされる。血縁関係がある特定の集団に継承されるようになるのは欽明の時代、大王一族、大王家が確立した時代である。欽明一族の正当性を主張するために、天上の神々の血を引くのが欽明とする神話の創造が行われ、そのふさわしい場所として三輪、天の香具山の間の磐余(いわれ)の地が選ばれた。磐余に王宮を営んだ最初の大王は継体であるが、その空間を神聖なものとしたのは欽明以降であり、その地が飛鳥である。
このころ登場するのが蘇我氏の馬子である。馬子の父は稲目、その先祖は武内宿禰とされる。稲目は堅塩媛とお姉の君という二人の娘を欽明に嫁がせることに成功、多くの王子と王女を生んだ。馬子の息子が蝦夷、その子が入鹿であり、後に殺されるが、馬子のもう一人の娘は法堤郎媛で舒明に嫁ぐ。そして馬子の孫の麻呂の娘は孝徳、中大兄皇子に嫁ぐ。まさに蘇我王朝とも言える閨閥である。
敏達の後を襲ったのは堅塩媛の息子で大兄皇子、用明である。当時の大王には血縁とともに人格、年齢、資質が問われていた。推挙したのは額田部皇女とされるが、これに異を唱えたのがお姉の君の息子穴穂部皇子、その子が厩戸皇子(聖徳太子)である。穴穂部皇子は物部守屋と組んで用明を襲撃、用明がなくなると馬子は穴穂部皇子と守屋殺害を命じる。額田部皇女は守屋の討伐に参加した泊瀬部皇子を大王に指名、崇峻となった。さらに馬子は崇峻までも刺客を使って殺害、ここで推古が女帝となる。蘇我馬子は権力を確定するために王権の聖地である飛鳥に飛鳥寺を造営することに力を入れる。推古もこれに力を貸したのである。大王家の神聖性の確立であった。
厩戸皇子は用明の子であり、推古を補佐した。この時代には皇太子制度は確立していないため、皇太子ではない。推古即位の時には厩戸皇子は14才、まだまだ若く、実際に国政に参加するのは600年頃、27才の頃であったのではないかと筆者は推察する。倭国が遣隋使、冠位12階、憲法17条などを打ち出す時期であった。
厩戸皇子が死ぬのは622年、蘇我馬子はその4年後626年に死ぬ。そしてその2年後推古も永眠、75才であった。敏達の大后になって52年、女性大王となって36年であった。推古は亡くなる前日、二人の息子を呼んだ、田村皇子と山背大兄大王である。田村皇子は敏達の孫、山背大兄皇子は厩戸皇子の息子であり、推古は田村皇子に大王をゆずる、舒明である。舒明はのちの皇極(斉明)との間に中大兄皇子(天智)と大海人皇子(天武)を息子とて設けるが大海人皇子は母が別とも言われる。田村皇子を取り巻く群臣は推古の遺言に従おうとするが山背大兄皇子は不満である。これを押さえたのが群臣の一人蘇我蝦夷である。蝦夷は乙巳の乱で入鹿とともに討たれるのだが、ここでは自分の立場に忠実である。
日本書紀では入鹿が山背大兄皇子を独りで滅ぼそうとしたため、飛鳥板蓋宮で殺されたとしている。そして蝦夷も翌日自殺、政変後軽皇子に譲位、孝徳帝となる。筆者は皇極はこの計画を事前に知っていたのではないかと考えている。孝徳と阿部小足媛の間に生まれたのが有間皇子、蘇我赤兄と図って斉明と中大兄皇子が紀伊温湯に出かけているすきに反乱を起こそうとする。しかしこれは斉明の謀略、まんまと乗せられた有間皇子は捕らえられ殺される。その斉明は661年、百済救済戦争のため博多への出征中に死亡、中大兄皇子は急遽帰路につき斉明を飛鳥で葬る。中大兄皇子は斉明の遺志を継いで百済に向かうが、白村江の戦いで大敗する。その後の中大兄皇子は敗戦処理と将来の唐からの脅威に備えることとなる。
この後が壬申の乱、天智の娘二人を后に迎えた大海人皇子であるが、自分には王位を継ぐ遺志などないことを証明するために出家をするといい、天智による殺害から逃れるが、天智死後は大友皇子と戦い、戦力的には決定的に不利な戦いを勝ち抜き、天武帝となる。ここで初めて天皇、日本、皇太子という名称が確立する。日本歴史、と気軽に呼ぶが、これ以前は倭、もしくは大和朝廷であり、大王、后、皇女などである。天皇制度、律令制度も確立したのもこの天武・持統時代から、と考えるのが適切、という話。7世紀の舞台となった飛鳥という都市空間が古代の政権、国家などの形成に大いに影響した、という説である。
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