講談社「日本の歴史」第一回配本として発刊された本。日本という呼称は天皇という呼称と同時に7世紀に使われ始めた。日本列島では列島西部と朝鮮半島、中国大陸南部との縄文時代以来の海を通しての交流を背景に紀元前3-4世紀ころからそれまでとは異質の形質を持つ人々、普通は弥生文化と呼ばれる縄文文化とは異なる極めて多数の人々が北九州、列島西部、瀬戸内海、近畿などに移住したきた。稲作、畑作、養蚕、操船、金属器の使用、牛馬の飼養、鵜飼、鷹飼などの文化を持ち込んだ。埴原和郎は人類学の立場より、東南アジア系の縄文人を先住民とする日本列島に、北東アジア系のツングースの流れを汲む人々が朝鮮半島から移住してきたとしている。7世紀までの1000年間に少なくとも120万人以上である。そのため、列島西部の人たちはこうした弥生人の形質を強く持っているが、フォッサマグナより東、特に本州東北北部、北海道、南九州以南、特に八重山諸島にはその影響を受けつつも、縄文人の形質をより多く残し、現代アイヌ人、沖縄人は縄文人の形質をよく伝えているという。網野善彦もその説を支持している。これは以降の歴史に少なからぬ影響を及ぼす。・と呼ばれた被差別民は東北北部、北海道、八重山諸島には殆ど見られない。弥生人である農耕民にはあり、縄文人である狩猟の民にはない、血の穢れに関わる差別がないことに起因する。こうした列島西部の差別意識は朝鮮半島にも共通するものがあるという。
列島東部と西部には個性ある地域社会が形成されていった。亜寒帯針葉樹林帯と落葉樹林帯という植物相・動物相の違いを背景に、東の杉久保型ナイフと西の国府型ナイフなど弥生人移住以前からも違いがあったと思われている。弥生人はこうした環境の違いも踏まえて列島西部を中心に広がっていった。畑作農耕では列島西部ではアワ、ヒエ、ソバなどの雑穀類といも類の栽培を加えた畑作農耕が展開され、列島東部では、アワ、キビ、ムギと牧畜の慣行が結びついた畑作文化が形成されていた。これはのちの荘園公領制の年貢に見られる東西の違いにまで影響を与えている。列島西部では住居は円形、多角形の求心構造で、炉は灰穴炉で住居の中心に、列島東部では住居は長方形の対象構造で炉は地床炉で住居の壁際に偏るという。宮本常一が指摘した東日本の囲炉裏と西日本のカマドの違いとの関係も研究が必要である。婚姻の習慣も東西で異なる。嫁入り婚は家長の意思が強く働き、婚姻相手の決定が行われ家長に委託された仲人がその選択にも関わる婚姻であり東日本に多く見られた。婿入り婚は若者組や娘組などが婚前交遊の機会を保証し年齢階梯制を形成、列島西部に広がっていた習慣である。この東西の違いに南北の違いを指摘したのが藤本強(「もう二つの日本文化」)である。本州・四国・九州を中の日本文化とすれば、北海道は北の文化であり、八重山諸島は南の文化であるとした。これらを踏まえて日本語の形成過程をたどると、北・中(東・西)・南のそれぞれの文化同士の交流のための共通語としての日本語が必要だったのではないかと藤本強はいう。北方系言語の高句麗・百済。ポリネシア系の言語や南方系のタミール語が混交したのが日本語であるというのだ。その中に方言が北・東・西・南に残っている。
日本が現れるのが壬申の乱に勝利した天武朝時代であり、天武死後の持統朝に施行された飛鳥浄御原令で天皇、皇太子などと共に定められた。天皇制の議論もここを始点として語られる必要があり、それ以前のどこまでが天皇の先祖として辿れるのかという検討が必要だという。つまり天武以前は天皇と呼ぶのは問題があり、大王や王と呼ぶ必要があるという主張である。皇太子、皇后、皇子についても天皇制確立前は太子、大兄、太后、王子などと呼ぶべきであるとする。天皇と日本はペアで成立したのである。成立時の日本はどこまでを領域としたのか。蝦夷、隼人の反乱があり、それを討伐する軍隊を派遣、7世紀には南は北九州、北は越中、会津、常盤あたりまで、9世紀には北は出羽の秋田城から、陸奥の志波城、胆沢城などが北限であった。
源頼朝が鎌倉に王権を確立して東国という概念も成立、それまで坂東の地とされた坂東八国である相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野が鎌倉幕府成立と同時に関東と意識され、陸奥、出羽とは区別されるようになった。伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発の三関の東が東国であったのが分類されたはじめである。それは同時に西国、関西の概念も生んだ。九州の概念が確立したのはモンゴル軍襲来に備えて鎌倉幕府が九州に太宰府という強力な権限を与えたことに始まる。つまり、それまでは鎮西探題として西国の範囲として京の朝廷勢力下にあったその地が東国の王権の力で自立したとも言える。四国は行政、裁判機関が置かれることはなかったため瀬戸内海の三国と太平洋側の土佐と分かれていた。中国の呼称が使われるのは、南北朝時代足利直義の子直冬が西国8カ国成敗として、備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、因幡、伯耆に評定衆などとともに下向したとされるときである。石見、美作、備前以外を支配下においた。
差別に東西・南北差があることは先に述べられたが、・の呼称は江戸時代に定められたもの、地方により大きく異なっていた。畿内では革職人を指す、革田、山陰では鉢屋、四国中国では茶筅、、北陸では藤内、東北日本海側では楽、山梨には野守、埼玉では林守、茨城では箕作、広く関東ではとも呼ばれた。これ以外にも猿を操る猿曳、院内、博士と呼ばれる陰陽師が被差別民とされる地域もあり差別の要因はその職業や地域など様々であった。
百姓は農民であるというのは思い込みであるともいう。百姓と分類されている人たちには、裕福な商人や廻船人がおり、地方によっては船大工、桶屋、左官、石工、石組み、髪結いなども含まれていた。また農民にも本百姓、小作、下人、名子、被官などがいた。人口の80-90%を占めるとも言われる百姓のなかには40%ほどの多様な職業に携わる人々がいたことも確認が必要である。
網野善彦は日本歴史全集の発刊にあたって、北・中(東西)・南と文化が異なる日本列島、日本と天皇の始まりと歴史、地域呼称、差別、百姓について述べているが、これらは日本歴史を通した一つの共通のリズムともなっていることがらばかりである。日本歴史を学ぶ際の切り口として極めて参考になる視点である。
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