正書法というのは「正しい書き方」、日本語にそれがない、というのは漢字と仮名を組み合わせて書く時の書き方に、使える漢字、送り仮名、全部仮名、という複数の間違いではない書き方があるということ。それが悪いというのではなく、標準的に多くの人が使う書き方、というのはあるけれども、正解はこれというのがないという。日本語がたどってきた歴史を考えるとこれは分かる。
古今和歌集の序文は2種類あり、一つは全部真名、もう一つは真名・仮名まじり文で書かれている。その仮名序が書かれたのは906年から907年の間で、かな文字が生まれてからしばらく経っていることが想像できる。漢字が日本列島にもたらされたのは3世紀頃の木簡に書かれていたことから言われていることで、それが当時の人々に読み書きの道具として使われていたかどうかは不明である。仏教伝来の6世紀には、お経とともに導入され使われていたはず。記紀は漢字で書かれ、万葉集はすべて漢字(万葉仮名)で書かれていたから、200年ほどは和語を漢字でなんとか書き残そうとその頃の日本人は努力してきた。
そうした中で、漢字で書かれた仏典などを訓読する時の漢字の音、読み方を分かりやすくするために、文章の傍らに書き込まれたのが、漢字の一部を省略して書かれたカタカナが生まれた。「ア」は阿、「イ」は伊の一部をとった。楷書ではなく草書行書の形の偏の一部を僧侶たちが読経学習の場で生み出したという。カタカナは970-999年成立の宇津保物語の中で使われている。
平仮名は日本語を書く場から生まれた。多くが和語で詠まれている万葉集の和歌を木簡などに書き写す際、漢字を崩して書くことで生み出された。書く、というのは読み手を想定しているはず。印刷物はないので、当初は自分で後で読む、もしくは特定の読み手・人を対象にして書かれていたと考えられる。仮名交じり文で書く場合に、一部の単語を真名、漢字で表すと意味が分かりやすい場合がある。それは単語が漢語である場合。土佐日記で日付は漢字で書かれていた。「病者」という単語は漢語、それを表すのに和語である「やまひのひと」ではなく病者という外来語である漢語を使い漢字で書かれている。日本語の文字は、本来は外来語であった漢語の漢字を音読みして文字として使い、さらに外来語としても使うことから始まっていると言える。
例えば、魏志倭人伝の卑弥呼は、和語の「ひみこ」もしくは「ひめみこ」であったとも言われる音を漢字として表したもの。これは仮借(かしゃ)と呼ばれる。現代中国語でマクドナルドを「麦当労」と書くのと同じこと。日本にも存在した硫黄は本来は漢語で「りゅうおう」と発音しても良さそうだが、古代日本では頭音には濁音、ら行音が存在しなかったため、「りゅ」に音が近い「ゆ」が用いられ「い」に音変化した。「セロ弾きのゴーシュ」のセロはcelloのことで、現代ならチェロ。外来語をどのように日本語で表すかは、時代によって変化する。漢語と和語で構成されてきた日本語の書き方に揺れが生じるのはこのためである。
飛鳥時代、奈良時代、平安時代と律令制度や税制、政府の官職などすべてを中国から取り入れてきた日本では、漢語で表すと新しい良いもの、という感覚が強かったのではないか。土佐日記ではほとんどが平仮名で書かれていた文章が、和語の中に漢字や漢語を取り入れて文章を書く教養人が増えてきた。13世紀初頭1205年ころにまとめられた新古今和歌集に収集されている和歌ではほとんどが平仮名で、山、雲、見る、秋などの漢字が使われているのみである。「見る」はかな文字として使われていると考えられ、和歌はほとんどが平仮名で書かれる。それが同じ13世紀1274年に書き写されたものが冷泉家時雨亭文庫に残されているが、写本では、夢、枝、風、身、昨日、国、田、森、夜、時雨、宮など多くの漢字が仮名交じり文として使われている。つまり70年ほどの間に採用される漢字が増えている事が想像できる。
さらに時代が進んで、江戸時代にも漢語を日本語に取り込む例が増える。器量、気鬱、不審、最愛、幼稚、経営、匍匐、佇立、莞爾、微笑、零落、邂逅、機関、憔悴、漂白など多くの漢語が取り入れられてきた。そして明治時代には西欧諸国からの概念である個人、新婚旅行、科学、彼女、電報、恋愛、世紀、家庭、衛生、民主主義、人権、憲法、などの新しい概念が漢語として作り出された。そのころの作家たちは、表現としてのふりがな付き漢字を作り出す。恐怖(おそれ)、疲労(つかれ)、沈殿(おどみ)、誘惑(いざなひ)などである。西洋外来語の漢字化もあり、スエーデン(瑞典)、イギリス(英吉利)などがある。英国、米国などは現代日本語としても安定的に使われているが、イギリス、アメリカという表記も標準的に使われている。
日本語では漢字、かな、カタカナを選択的に使うことが枠組みとしてあり、現代では常用漢字表で漢字に関するルールを定め、仮名遣いは現代仮名遣いとしてルール化されている。外来語の表記、法令表記、公用文などがそれぞれ定められているので、概ね標準的な表記法は定まっていると言える。しかし、例えば恐れる、怖れる、畏れるの違いに標準はあるのだろうか。怪しい、妖しいの違いなどは、「妙になまめいて人を悩ませる」のが妖しい、正体不明で疑念や警戒心を抱かせる、良くない方向に変わりそう、実現可能性が低い、能力不十分、犯人である疑いがある、秘密の関係がありそう、などは怪しいとされる。
表す、表わす、という送り仮名の振り方の揺れは許容されているが、同一文章、同一の書き手ならいずれかに統一すること、と指導されるという。自ら、自ずから、は「みずから」「おのずから」であるので、送り仮名の振り方は読み方にも通じる場合があるので重要である。実る、実、はいずれも「みのる」であるが、個人名であれば実となるので、こちらも重要。想定する読み手の常識が書き手にも共有されていることが、日本語の表現には大前提となっている。本書内容は以上。
日本歴史の古文書などを読もうとすると、こうした文字の歴史を踏まえていないと全く読み解けない。平仮名の変体仮名や歴史的仮名遣いくらいは分かるようになりたいものである。