見出し画像

意思による楽観のための読書日記

海軍乙事件を追う 後藤基治 ***

元毎日新聞政治部長の筆者は、太平洋戦争中に従軍記者として海軍省を担当、12月8日開戦というスクープ情報を手に入れたが、事前の新聞発表には情報筋の身元が分かってしまうというリスクがあった。11月11日に米内光政邸で12月上旬開戦予定、という見通し情報を米内から見せられた後藤だったが、開戦反対論者だった米内が、記者に観測記事でも書かせて開戦時期を少しでも遅らせようとしているのかと疑った。マレー半島の気象情報や、ドイツの電撃作戦が日曜日だったことなど、様々な周辺情報からいよいよ開戦、それが12月8日であることを確信していた後藤だった。当日の朝、朝刊ゲラは出来上がっていた。「東亜撹乱、英米の敵性極まる」「断固駆逐の一途のみ」というトップである。午前6時に大本営から開戦発表、毎日新聞による大スクープが成功した。

昭和18年11月、後藤はマニラ駐在員としてフィリピンに異動。昭和18年に山本五十六のあとの海軍長官のポジションにいたのが古賀峯一大将。19年4月にサイパンからパラウに向けて夜間飛行で移動途中行方不明になった。一番機に古賀長官、山口副長官、二番機には福留参謀長が乗り込んだ。三番機だけは夜明けを待って発進し、無事到着したが、先発した二機はいつまで立ってもパラウに到着せず、セブ沖で消息を絶ったことが判明。二番機に搭乗していた福留参謀長は、作戦遂行のための暗号表、海軍機密情報である艦船仕様、船長名など極秘情報を持参していたはずだが、それは、福留を発見、救助した地元住民によりアメリカ軍に届けられていた。アメリカ軍は全情報をコピー、解読の上、原本を元通りにして海中に沈めたという。一番機は見つからず、二番機搭乗員は救助され助けられた。

福留参謀長と大本営をこの大失態をどうしても隠蔽することを決意。福留は失った鞄が地元民に奪われたが、興味を示さなかったと証言。その後、現地の大西中佐の機転により、現地フィリピン軍クーシン中佐と交渉、福留参謀長を取り戻すことに成功した。大本営は、福留を捕らえたのは地元民であり敵ではなかったと強弁、不問に付した。当時の兵隊は生きて虜囚の辱めを受けるなと教えられ、司令官の敵前逃亡は死刑、高官の機密情報喪失も極刑だった。大本営の解釈は古賀長官は不可抗力により墜落、戦死ではなく殉職。福留参謀長は、司令官ではなくスタッフ、救助したのも地元民であり敵性はなかったとした。機密情報は救助した地元民は興味を示さず海中に没したと結論して、事態収束を図った。山本五十六長官撃墜事件が甲事件として、本件は乙事件とされた。奪われた機密情報はその後のマリアナ沖海戦でアメリカ軍に活用され、数々の海戦大敗北につながる。

本件は乙事件として知られてはいたが、海軍、関係者による隠蔽工作により戦後まで不問に付されたままであった。しかし、昭和46年に発刊されたトーランドによる「大日本帝国の興亡」により情報漏洩の件が明らかにされた。戦後も生き残った福留参謀長など関係者は、週刊誌取材に対してもシラを切り通していた。本書は乙事件にまつわる前後の情勢をも含めた戦中の海軍における諸情報を記者の立場でとりまとめた事件とりまとめ集でもある。筆者後藤基治は昭和48年に死去しているが、本書は遺稿をもとに妻である美代子さんが2017年発刊にこぎつけた。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事