意思による楽観のための読書日記

千曲川のスケッチ 島崎藤村 ****

小諸に教師として赴任し小諸を中心に佐久地方の自然を写生するように書いている。吉村樹という東京にいる青年に宛てて書いているという形式である。書き出しは「敬愛する吉村さん――樹(しげる)さん――私は今、序にかえて君に宛てた一文をこの書のはじめに記すにつけても、矢張呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸く今纏めることが出来た。」

佐久には度々訪れるので出てくる地名や景色が連想を誘う。今では上信越道で練馬から1.5時間ほどで佐久ICに到着するが、当時はどうだったのだろうか、ずいぶん田舎に来た、という感じがしたのだろう。また、小諸の学校に通う生徒たちも徒歩で通っている者が多くて、平原、小原、山浦、大久保、西原、滋野など小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る、という記述もあり、知った地名を見ると景色が思い浮かぶ。また農家の子供たちである彼ら彼女らは実際養蚕で多忙な折には養蚕休暇(蚕休?)になる。

藤村は度々小諸から近隣に足を伸ばしている。岩村田から野沢、臼田、そして馬流、そして相木、川上、海尻、野辺山と来て、馬を育てている酪農家たちの家を訪ねている。今では高原野菜で潤っているこのあたりは当時は貧しかったようだ。水道がなく、雨水を溜めて風呂の水にしている。馬は宮様が輸入した馬を貰い受けて繁殖させたとかで、宮様も見学に見えたと記述がある。

上田から別所、和田、青木へと旅した様子もある。当時は上田からは中山道沿いに歩いて行ったのであろう。野原で遊ぶ子供たちや大人たちをスケッチして、都会に住む吉村君には想像できないだろう、と田舎の人間たちを面白く描写する。牛や豚をする場面は迫力いっぱいである。農民が牛や豚の脳天を打ち割って解体するさま、よほどショッキングだったのであろう。

今は懐古園となっている小諸城址、ここにある桑畑がでてくる。ここにも桑畑があったのだ。今では桜の名所であり、小諸といえば懐古園という名所である。藤村によれば鶏も飼われていたり城址という雰囲気ではなく、弓場もあったということで、今とは異なるのどかな風景なのだろう。春から夏秋、そして冬、早春と一年の佐久盆地の暮らしがスケッチされている。浅間と八ヶ岳に挟まれ、千曲川が流れる風景を思い浮かべながら読める読者には至福の文章スケッチではないか。

藤村は、奥付で次のように述べている。

「旧いものを毀(こわ)そうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀(こわ)れている。これが仙台以来の私の信条であった。来るべき時代のために支度するということも、私に取っては自分等を新しくするということに外ならない。この私の前には次第に広い世界が展けて行った。不自由な田舎教師の身には好い書物を手に入れることも容易ではなかったが、長く心掛けるうちには願いも叶い、それらの書物からも毎日のように新しいことを学んだ。」 そして小諸の地でダーウィンの種の起源や人間と動物の表情、トルストイやドストエフスキーも読んだというのである。

「思えば、明治文学の早い開拓者の多くは、欧羅巴(ヨーロッパ)からの文学を取り入れる上に就いて、何れも要領の好い人達であった。そこに自国の特色がある。これは徳川時代の文学者が遺産を受けついだからでもあり、支那文学の長い素養からも来ていると思う。」「私は明治の新しい文学と、言文一致の発達を切り放しては考えられないもので、いろいろの先輩が歩いて来た道を考えても、そこへ持って行くのが一番の近道だと思う。」

なるほど、千曲川のスケッチは言文一致の藤村としての試みであり、小諸で過ごした7年、というのはこうした改革を進めながらの修行生活でもあったのか。「到頭、私は七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。」と最後に記されている。小諸は藤村にとっても、他の物書きや学者にとっても明治文学が昭和に向かう道筋の通り道にあったのかもしれない。
千曲川のスケッチ (新潮文庫)
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