世界の多くの国では「領主の宗教が領民の主教である」という政教一致を目指しているが、欧州からの接触が始まってからすぐに鎖国に移行したのは信仰の自由と布教という名の侵略を防ぎたかったからであった。オランダは政教分離を実質的に確保した欧州での唯一の国であった。そのころ日本では農民や町民の移動の自由、旅行の自由も世界で一番普及していた。
世界の多くの国では自然変異に対するリスク分散の意味もあり牧畜と農耕の二つを分離して存在させていた。平和時には懸命なやり方に見えるこの分散は、飢饉や戦争という場面では農民と牧畜民による土地の取り合いという必要性に迫られる。ゲルマンやフン族の民族移動には異常気象がその前にあったという。日本では自然が豊かであったため、こうした分散は不要であったので、国内のこうした争いはなかった。
日本では律令制度を導入し平城京を建設した時、朱雀門、羅生門などの門は建てたが城壁は省略した。人の通行を制限するという必要がなかった、平和な社会だった。中国、朝鮮、欧州の都市は堅牢な城壁で都市町民も含めて都市は守られた。欧州の都市に建てられた2-4階建ての住居では室内に便所がなく糞尿を道路に捨てていたので不潔で悪臭の立ち込めるのが街中であった。欧州の森林を枯渇させた原因は権力者による尖塔の乱立と帆船の建造競争であったと指摘。日本では結構頻繁に遷都したが、欧州や中央アジアでは疫病が流行しても都市が城壁も含めて破壊されたのでなければ遷都という選択肢はなかった。日本では怨霊や疫病を恐れてそれが理由で遷都した。
大和王朝と筑紫王朝が勢力を争っていた6世紀頃、神武天皇の一族の勢力を継承した継体天皇はその血筋とは別の越の国に勢力を持った地方豪族であったが、このころ磐井君を頂いていた筑紫王朝は大和王朝に屈服させられ、日本統一が成立した。このころには、出雲、吉備、難波、河内、葛城、丹波、近江、越、尾張という列強国が存在していたが、これら諸国の中で交通の要衝であった大和が統一の中心として選ばれたのであって力づくでねじ伏せたのではなかった。政治力と交渉でなりたったのが大和政権だったというのである。
欧州における宗教戦争では、宗派が違うことは殺戮の立派な理由となった。カトリックによるカタリ派の殺戮、プロテスタント各派による宗教改革、カトリックによる巻き直しでは大規模な殺戮が女性や子供でも容赦しない殺戮という形で数世紀も続いたのだ。
天皇家が世界的に見ても珍しいくらいに長生きしているのは守りを固めるのではなく、無防備であったことになるという。藤原、平、源、北条、足利、徳川という時々の権力と並立しながらはるかに長生きしているのは事実である。守りはいくら厳重にしてもまもりを突破する力はいつかは出現する。守りが厳重であればあるほどその守りを打ち破ることは新権力の正当性の証明になる。無防備な権力者を力づくで屈服させても社会から正当性を認められないというのだ。
あまりに日本礼賛の記述が続くとうんざりするが、記述には一貫性があるので納得出来る部分も多い。冷静な記述のほうがもっと信頼性が増すはずだ。
奇跡の日本史―「花づな列島」の恵みを言祝ぐ
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