1997年、自民党は自由党(旧新進党)との連立を図っていたが、時の官房長官野中広務は自由党の小沢一郎とは犬猿の仲だった。この仲を取り持ったのは渡邉恒雄だった。自自連合の必要性は自民党側でも多くの人間が感じていたがキーマン同士が仲が悪くてはどうしようもないと、竹下登の秘書だった青木幹雄と元通産大臣の中尾栄一が、まずは野中広務を小沢とのチャネルがある渡邉と会わせて連立の足場作りをしようと考えた。そしてそれは成功した。渡邉は中尾栄一の背後にいた中曽根康弘とは盟友とも言える間柄、その後、二人は梶山静六や亀井静香などに働きかけを行った。そして1998年11月に自公連合が成立し今に至っている。この時の総理は小渕恵三、両党合意の裏にも渡邉の後押しがあったという。マスコミ人がここまで政治に関わっていたのも不思議だが、そんなことをしていて不偏不党の報道などはできるはずがない。これは本当なのだろうか。
渡邉恒雄の生い立ちはWikipediaなどに詳しく書かれているが、資産家の家に生まれたが父は早くに死んで残されたアパートからの収入などで東京大学にまで行った。大正15年生まれの渡邉恒雄は学生時代の軍事教練や軍隊思想に染まっていく教師たちを軽蔑した。そして終戦後大学に入ると同時に共産党に入党、大学内部の細胞として活動をするが共産党の方針と対立、一転して共産党の活動方針と反対の考え方を持つようになった。その後、マスコミを目指し読売新聞に入社した。最初の取材成功体験は共産党の山村活動隊への突撃取材だった。中国の共産党は農村に入って活動したことを学び、日本でも山村の農村で活動をする、というのが山村活動隊が始まるキッカケであったが、その活動は過激になり武器を持ってテロを始める活動隊もあったので、山村活動は警察から付け回されるようになっていた。その活動隊を取材に行け、という新聞社からの指示だった。単身、ある山村活動隊に忍び寄った渡邉はすぐに見つかり殺されそうになる。しかし、その時のリーダーは自分たちの活動の姿と真の狙いを報道して欲しいと、渡邉を殺さず取材を許した。その記事は大スクープになり、政治部長だった古田徳次郎の目にとまり渡邉は政治部の記者となった。
渡邉は自民党実力者で副総理だった大野伴睦の番記者を命じられた。番記者とはいつも担当する政治家の側にいて情報をキャッチするのが仕事だが、この頃の番記者は密着度合いが半端ではなかったようだ。自宅に上がり込みいつもその政治家のそばにいることで、誰が会いに来た、先生は誰がお気に入りで、誰は嫌いだ、ということが分かってくる。それが高じてきて担当する政治家の信頼を得られると、面会の日程調整や優先度判断まで任されるようになる。渡邉がそうなるのに時間はかからなかった。そして、岸信介内閣が60年安保条約批准を受けて総辞職する際の次期首相候補は副総裁だった大野、前通産相の池田勇人、そして石井光次郎だった。大野は河野一郎の河野派と、岸派の大番頭だった川島正次郎と図り投票での連携を画策した。この時、岸の裏切りを察知したのは番記者の渡邉であり、大野の側近たちは誰もそのことに気がつかなかった。そのことを告げられた大野は岸を信じようとしたが結果は裏切り、そして大野の渡邉に対する信頼は一気に高まったという。
1965年の日韓条約交渉の際、単なる一記者に過ぎなかった渡邉は読売のソウル特派員と連絡を取りながら大野らに働きかけて自分の描いたシナリオ通りに交渉の締結への後押しをしたという。それに協力したのが以前から渡邉と交遊のあった右翼の大物児玉誉士夫だった。条約の中で約束された賠償金の支払いは日韓政治家財界癒着の温床となったのだが、その利権に目をつけたのが児玉誉士夫であり、韓国側のキーマンはクーデターで大統領になっていた朴の右腕だった後の首相の金鍾泌だった。副総裁大野と金の会談をセットし、大平正芳と金の間で話し合われていたメモを大野に差し出し、交渉でもめていた賠償金の金額を3億ドルの無償供与、2億ドルの長期低利融資、1億ドル以上の民間低利融資実行、これを大野に認めさせた。渡邉はこのメモ内容を新聞記事にした。交渉内容が新聞に掲載され、帰国した大野から交渉結果を知らされた池田はそれを認め、日韓交渉はまとまった。そしてこの賠償金は日本企業にとっては韓国進出の絶好の機会となり、韓国与党の資金源にもなって日韓政財界癒着を生んだ。そして読売社内でも渡邉恒雄と右翼の児玉誉士夫とのつながりが問題視し始められた。
1967年、九頭竜ダム補償金獲得工作にも渡邉は絡んでいた。鉱山経営者の緒方克行からの工作金1000万円が児玉誉士夫に渡り、そのうち300万円は渡邉が購入した弘文社という出版社の資金になったというのである。その結果、渡邉はワシントン支局へ異動となった。ワシントン赴任直前にも大手町の国有地の払い下げがあり、その価格と入札をめぐって渡邉は暗躍した。当時の大蔵大臣は大野伴睦派の幹部水田三喜男、渡邉は価格値下げを水田三喜男と交渉、過去の売買実例などを持ち出して、坪単価にして10万円の値下げを獲得、読売新聞社は総額38億6500万円で土地を獲得した。当時の読売新聞の社長は務臺、ワシントンに向け羽田から飛び立つ渡邉を見送りに来た。社長が社員の見送りに来ることなどは前代未聞だったが、務臺は渡邉の政界ネットワークや交渉力などの力を評価したのだった。
読売新聞の最大勢力はなんといっても社会部、政治部は亜流だった。社主の正力松太郎はよみうりランドを利益のほとんどをつぎ込んで建設、次は富士山より高いタワーを建てたいと言い出すなど、老害を振りまく存在となっていた。当時の社会部には「不当逮捕」「誘拐」などの著作もある記者本田靖春や大阪には黒田清などの名物記者がいた。正義感が強い社会部記者の頭を悩ませたのは、「世界最大の発行部数を誇るのは読売」と信じる正力松太郎の存在だった。実際には当時世界最大はソ連のプラウダだったが、日本テレビクイズ番組で出題された問題の答えをねじ曲げさせたのは当時の読売の総帥正力松太郎だった。本田に言わせれば正力は天才的事業家だけど新聞を広告チラシとしか考えていない、社長の務臺も販売の神様であってジャーナリストではない、そして渡邉は政治屋、読売の不幸はトップにジャーナリスト魂を持った人を頂けないことだと。そして渡邉は同期の氏家とともに社会部勢力の力を一枚ずつ削いでいき、二人で務臺に取り入って、社会部編集局長の長谷川を巨人軍代表においやり、渡邉が政治部長兼局次長、氏家は広告局長になった。これが読売政変であった。
1979年、渡邉は論説委員長に就任、その3年後には盟友中曽根康弘が首相になる。渡邉はそれまで、田中角栄や秘書の早川などを通して中曽根を首相にして欲しいと頼み続けていた、それが叶ったのであった。そして田中と中曽根はNHKの報道に最も口を挟んできた首相であったという。そして読売新聞は手放しで中曽根内閣を誉めそやす記事を連発した。度々社長から記事の差し替えを命じられた社会部記者の村尾は会社を去る前にこう言った。「人生では千両役者が乞食になることもあれば、ダイコンが殿様になることもある。」
ジャーナリズムの役割とはなんだろうか。権力の暴走をチェックし、読者である庶民の自由と権利を守ることのはず。渡邉恒雄の出発点も敗戦後の反権力の戦いだったはずであった。その青年時代には自由を愛したはずの哲学青年は国家論理を振りかざし、記者たちの筆を折らせ言論の自由を脅かす権力者になってしまった。渡邉のような番記者行為は「本当のことを伝えない日本の新聞」の著者マーティン・ファクラーの言葉を借りれば取材対象に接近し、仲良くなることで情報を得ようとする「アクセスジャーナリズム」、渡邉の若き日の記者活動は本当のことを伝えるジャーナリズムではなく、政治を動かすポリティカル・ジャーナリズムである。1000万部と公称されている読売新聞の発行部数は、10%以上はあるという返品の山の分や夕刊、関係する新聞も含めての水増し部数だという。そこまでして権力を示したいという欲望はどこから来るのであろうか。高校受験で府立一中に受からず、日比谷高校にも受からなかった劣等感から来るのか。筆者によれば「恐怖、猜疑、嫉妬、打算、憎悪を知り尽くし利用することに長けた真のマキャベリスト、渡邉恒雄」、こんなトップが会社にいたらどうなるのか、この本を読んで、誰が読売新聞を読みたい、読売新聞に入社したいと思うだろうか。今後のNHKがジャーナリズム魂を失わないことを祈りたい。
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