赤坂地名の由来、赤土の地の紀伊の国坂には風呂屋町がありその横丁より赤根山へ登る坂を言う。赤根山は紀州藩の中屋敷あとで後に赤坂璃宮、迎賓館。赤坂の隣に青山があるのが偶然、家康が譜代の重臣青山忠成に老馬をもってのりまわせるだけの土地を与えるとして拝領したのが青山一帯、丹波篠山藩、分家の美濃郡上藩の青山氏の藩邸を中心に町家が形成されたという。
赤坂見附にある弁慶橋は江戸時代にはなかった。明治22年弁慶小左衛門が築いた堀なので弁慶濠、そこにかかった橋で弁慶橋。一ツ木通りに名を残す一ツ木の由来はふるい。上一ツ木は四谷暗闇坂から下一ツ木は赤坂まで、元は人継と書いたと言われ平安時代にまで遡る。現在では赤坂4-5丁目の中に通りの名前として埋没しながらも生き残っている。
新宿の名前は内藤新宿から来た。日本橋の次の宿所は高井戸、その距離が長いので、信濃高遠藩主内藤家の中屋敷がある場所に宿所を設けた。歌舞伎町の名前は戦後から始まる。九州大村藩の別邸跡、角筈1丁目北町会は、アミューズメントセンター構想があったこの地、歌舞伎座建築の話が持ち上がり、歌舞伎町と名付けた。十二社は熊野の十二所の権現をこの地に勧請した。熊野三山十二叢祠(じゅうにそうし)といったのがもとで十二社を「じゅうにそう」と呼ぶようになった。淀橋は今では新宿新都心、元は浄水場があった。将軍家のお狩場だったとき、山城国淀の地に景色が似ていたことから淀橋という。橋は神田上水に掛かっていた橋である。
新宿にはパン屋の中村屋があった。インド人の反英運動の闘士ボースが日本に亡命してきたときにかくまったのが中村屋の主人、義憤を感じて一緒に暮らす中で教わったカレー、今では中村屋の名物である。青山にある絵画館、一体なんの絵画があるのか。明治天皇御一代の業績を描いた和洋それぞれ40枚の絵画が展示されている。聖徳記念絵画館が正式名称である。学者文人の町、西方町、夏目漱石はここで虞美人草を書いた。街道の片側だけに町家が並んだことからきている。阿部正弘は備後福山藩の開明君主として有名、ペリー提督との交渉も担当、福山とこの地に設立したのが誠之館、誠之小学校が西方に、誠之館高校は福山に残る。
駒込は室町時代の記録にも登場、武蔵野の原野に馬が群がるさまから出た地名。なすが昔からよくできた土地であり駒込茄子と称す。春日にはコンニャク閻魔がある。目が不自由な老婆の願いを聞いたことで有名なこの閻魔、閻魔とはサンスクリット語で山、西アジアの古代神話では人類最初の死者だとか。このため天上の冥界への道を初めて知り、死者の王となって、仏教では地獄の裁判官となった。
江戸東京物語 山の手篇 (新潮文庫)
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