意思による楽観のための読書日記

明治の音 内藤高 **

三味線や下駄、蝉、日本の音楽、日本人が奏でる西洋の音楽を明治に日本を訪れたイザベラ・バードやエドワードモース、ラフカディオ・ハーンなどはどう聞いたのか。

1877年に来日したバードの神経を高ぶらせたのは最後に引き伸ばされる母音だったようだ。田園地帯のお寺で小学校の授業風景に立会い、小学生達には良い印象を持ちながらも、先生が読み上げる教科書を生徒たちがついて読むのを「生徒たちは最も奇態なそして騒々しい単調な唸り声で彼の読んだ通りを繰り返す」と否定的な感想を書いている。「家の内外を問わず、耳を襲う奇妙な物音の中で、学生が漢文を読むおとくらい奇妙なものはない」とまで言っている。アイヌに対しては「低くて、美しい、音楽的な声音で、毛深くて強そうな男達が発するには似合わない」とも言っている。この原因が母音だというのである。能の謡がそうであり、バードは能に対しては無関心である。日本人に野蛮を感じるのは、伸ばされる母音、ということである。

フランスの作家で海軍士官として日本に1885年に赴任したピエールロチ、日本人のお菊さんと1ヶ月半ほど同棲する。初めて長崎の港に入ったときに耳にしたのが蝉の声。「いつも鋭く無数の絶え間ない、昼も夜も日本の村々から聞こえてくるあの蝉の声」と表現している。お菊さんが引く三味線の音もロチにとっては「蝉の唄のように鋭い音色」という事になる。つまり、三味線は心地良い音楽というよりもノイズに近い音としてロチには聞こえている。しかし、お菊さんへ気持ちが傾いてくると、三味線の音も好ましく聞こえてくるらしい。最初は奇妙なギターと書いていた三味線を“shamesen”と書くようになる。

1890年に日本に来たラフカディオ・ハーンは住んでいた松江の家の庭にいる蝉や虫の声に深く関心を抱く。「日本に住む蟋蟀たちは熱帯地方の素晴らしい蝉と比べても稀に見る名歌手揃いといわねばならない。暑い季節の間じゅう月毎に入れ替わり立ち代わり違った唄を聞かせてくれる。」油蝉、ツクツクホーシなどの声音の違いについても記述がある。「ジ、という音から蒸気でも吹き出すようなクレッシェンドの歌になり喘ぐような声になって消えていく。ツクツク ウイス ウイス、ウイオース」など。そして一匹ずつその声音が違うことにも気がつく。日本滞在中微小なるものへの関心が深まったのがハーンであった。

日本では明治4年9月から東京丸の内を初めとして全国に広がった「お昼のドン」があった。近代化を担う音として街全体に正午を知らせる大砲の音。それまでは時間に横着であった日本人に時刻を正確に知らせる意味があった。その音は来訪者も驚かせる。お昼のドンはその後全国に広がっていく。徳島で取り入れられたのは1916年10月、徳島に移住したポルトガル人作家のモラエスは徳島で愛した女性コハルの死とこのお昼のドンを結びつけて記憶する。「不意にドン!と正午の号砲が鳴り、病室のガラスと建物全体が震えた。半時間後、コハルは逝った。」そして日本人の生活を変えたもう一つはレコードだったという。ラジオ体操や行進によって西洋式の集団行動が日本人に定着し、それが日清、日露戦争へとつながっていく、という視点を示すのが建築家のタウト。音は日本の近代化を表す、というユニークな視点による著作である。
明治の音―西洋人が聴いた近代日本 (中公新書)

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