当時の陸奥の国には大和朝廷からの国造がいて道嶋嶋足という、出身は蝦夷の豪族だが中央で出世して国造に任命されている。大伴駿河麻呂は陸奥の国按察使兼鎮守将軍だったが桃生城攻防戦で蝦夷に殺され、その後任として派遣されたのが紀広純、しかしこの広純もまた、蝦夷から一旦は帰順した豪族呰麻呂(アザマロ)に斬られる。
その後も都からは数万の軍勢を率いた将軍たちが派遣されてくるが、地理と山での戦いに秀でた蝦夷の軍勢に傷めつけられ続ける。しかし、多勢に無勢、その上東北地方にも稔りの乏しい年があり、そんな時には阿弖流為にしたがって戦ってくれる蝦夷の軍勢も集まらない。
都の側としても、東北に版図を広げる目的は税の徴収のはずが、度重なる軍勢の派遣で財政的にもモチベーション的にも限界が来ていた。そんな時に派遣されてきたのが坂上田村麻呂であった。戦いを繰り返すうちに、阿弖流為と田村麻呂は武人同士としてお互いを認め合う。
そして、坂上田村麻呂は自らの命を賭して阿弖流為のもとに僅かな手勢で駆けつけ、陸奥の国の王になってくれないかと持ちかける。坂上田村麻呂としても当時の大王桓武の許可をとっての話ではなかったが、そうすることでお互いの被害を広げることなく、中央の意向にも添えると思ったからであった。阿弖流為たちは当初意図を疑ったが、田村麻呂の命を賭しての願いを聞くことにし、一緒に都に赴くことを了承した。
都では桓武との面会にこぎつけるが、桓武は阿弖流為に王になってほしいとは言わなかった。田村麻呂はなんとか桓武の心変わりを願うが虚しく、阿弖流為たちの首ははねられる。
蝦夷の視点から語られる古代大和朝廷と地方勢力の争い、これは狩猟文明の蝦夷と農耕文明の渡来人を中心とした弥生文化勢力との勢力シフトの物語である。この戦いは多分卑弥呼の頃から始まっていて、室町時代頃から江戸時代まで継続したと考えられる。北海道ではその後も文明の接触は続いていたがそれは勢力争いと言えるものではなかったであろう。
「残照はるかに」は、山と山の間に夕日が沈む美しい景色はもう戻ってこない、という蝦夷の人たちの悲しい思いである。文明の衝突は世界中で同じように、後戻りはできない形で、個々の戦いは激しいが、長い歴史の中で見れば静かに進んでいったのではないか。読者の中には阿弖流為の気持ちになって物語に没入してしまう人もいるだろう。
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