浅田次郎の小説に「一路」があった。父が急死して引き継ぎもうけないままに参勤交代をするはめになり、妨害も入ったりして大変な目に会いながらも立派にやり遂げるというお話だった。本書は、藩の目付役が書き残した詳細な記録に従い、1841年(天保11年)の三河吉田藩のお国入りの様子を、詳細に再現している。
参勤交代の基本的知識としては、各藩主は人質として妻と子を江戸に住まわされていること、1635年(寛永12年)に定められた武家諸法度により、外様(寛永19年からは譜代、親藩も)参勤交代の義務を負わされた。外様大名は4月、譜代大名は6月か8月、近隣、特定大名の重複を避けるための日程調整は行われた。大名の財力負担があるのは当然だが、幕府がそれを意図したというよりも、結果的にそうなった方が正確。
本書で取り上げられているのは、三河吉田藩7万石の若殿様松平信宝(のぶとみ)が江戸から吉田藩までお国入りした7泊8日、289Kmの工程である。総人数は259名、うち士分は54名、足軽32名、その他は中間と呼ばれた非武士の武家奉公人で人材派遣の三河屋からの人足であった。
このような大所帯であるから、ルールは厳しく定められた。行列の順番は決められて通りに守る、宿泊地や道中、文句を言わず喧嘩もしない、大酒も厳禁、川越での舟守の指示には従う、押し買いや狼藉はせず言われた料金は支払う、火の元注意、荷物の重量オーバーには注意、荷物についた合印(あいじるし)は道中必ずつける。
宿の予約は事前に行い、別の大名との合宿はできるだけ避ける。どうしても重なる場合には、相手とのバランスを良く考え宿の割り振りを行う。幕府が定めた用人、人足への支払い額は遵守、大名の格に従った行列規模を超えない。吉田藩の規模で三河浜松からの参勤交代でかかる費用は1850年の帰国で383両、翌年は348両、川止めがあり足止めを食って13泊14日になった年は518両に跳ね上がっている。この値段には人足派遣の三河屋への支払いや遅れてやってくる女中たちの旅費が含まれておらず、総計すると600-700両はかかっていた。
宿舎で火事にあった場合には、荷物は馬に乗せ、人足が持ち逃げしないようにし、川止めの際、日程が遅れれば幕府への届けも怠りなく行う。お供の中に乱心者が出た場合、負傷者が出た場合、お供に死者が出た場合、そして万が一殿様に何かがあった場合には、場合ごとにマニュアル化された手順に従う。世継ぎが決まっていない殿様に万が一のことがあると、これは幕府に届け出るのは少し待って、病気療養という形のままに、日程を終えたことにして、末期養子の手続きを急ぎ行う。
本書内容はここまで。殿様を連れた旅行である参勤交代とは大変な一大イベントであったことがよく分かる。「一路」は作り話だと思いながら面白く読んでいたが、旅程や調整者の大変さには、かなり本当の内容が含まれていたことが本書を読むと分かる。現代でも社長のお供で出張するのは大変なはずだ。社長秘書の皆さんは本書を読んで、少しは気を休められるだろうか。