文章で読む記憶と比較すると、図解で示された記憶のほうが関連記憶として長く残る。例えば、5世紀における倭国から朝鮮半島への出兵と広開土王碑の記述、高句麗、新羅、百済と楽浪郡、帯方郡、伽耶、対馬、壱岐、倭国との関係。仏教伝来におけるガンダーラ地方からの伝来経路上のシルクロード、西域のクチャ、トルファン、莫高窟、朝鮮半島の百済を経由した伝来経路。これらは図解の視覚記憶が強烈である。
本書での強烈な図解は、古代朝廷における大王家の継承を巡っての勢力争いである。単なる大王家の系統図だけではなく、誰が誰を誅した、裏切った、殺害した、殺害を命じた、という関係が一目瞭然に示される。物部守屋討伐後、勢力を得た蘇我馬子は後に推古天皇となる欽明天皇の夫人である額田部皇女と結託しその息子である未成人の竹田皇子に確実に継承させようと企んだ。欽明天皇没後は、その息子であり額田部皇女の夫でもある敏達が即位するが、その没後、中継ぎの意味で、用明、崇峻が即位したが、崇峻の反逆の意思をその妻が蘇我馬子に注進、馬子は東漢直駒に命じて崇峻を殺害させた。臣下による主君殺害という大事件のはずだが日本書紀には崇峻の殯の記述はない。終身職であった大王の退位を強制的に実施するには殺害しかなかった、というのが真相ではないかという。こうした動きは人の関係を示す系統図なしに理解は難しい。
推古天皇の在位は36年の長きにわたることになる。その間、厩戸皇子と馬子トロイカ体制による制度設計で、遣隋使により得た情報を元に、冠位12階制、17条憲法を制定したのは有名。しかし622年には厩戸皇子と馬子が没し、628年に推古天皇が没した際に敏達の孫の田村皇子、厩戸皇子の息子の山背大兄王を死の直前枕元に呼んだとされるが定かではなく、蘇我蝦夷・入鹿が推す田村皇子派は舒明天皇として即位させる。641年舒明天皇が没し、蘇我蝦夷は蘇我氏の血を強く引く古人大兄皇子への王位継承を目論んで、中継ぎに舒明天皇の妻、宝皇女を即位させ皇極天皇とする。山背大兄王の巻き返しに先手を打つため、蘇我入鹿は山背大兄王を自殺に追い込む。こうした流れが、乙巳の変に繋がり蘇我氏は滅亡に追い込まれる。この流れにおける王家の系統図と婚姻関係は複雑怪奇。田村皇子は皇極天皇となる宝皇女とも、蝦夷の妹である保手郎女とも結婚し、それぞれの子が中大兄皇子、大海人皇子と古人大兄皇子であるからややこしい。
律令制度のもと中央集権国家を作り上げたい持統と藤原不比等は南九州に勢力を広げていた隼人に朝貢を強要するが反発され武力衝突が起こる。朝廷側は1万以上の軍勢を南九州に送るが、隼人勢力もこれにゲリラ戦で対抗する。当時の隼人勢力には、日向隼人、大隅隼人、甑隼人、薩摩の阿多隼人、種子島・屋久島に居た多褹(たね)隼人などがいたが、1年以上の戦いの末鎮圧された。その後も藤原広嗣の乱の頃までは隼人勢力は残存したが、800年ころには薩摩、大隅にも班田が設置され、それ以降は南九州の隼人勢力の記録はない。
従来は「薬子の変」と称された平城太上天皇の反乱、平城天皇が譲位したのは弟の神野親王で嵯峨天皇となる。平城天皇は暗愚されてきたが、官僚統廃合を実施、六道観察使の設置による地方情勢把握などで評価され、譲位についても、皇太子には自分の子である高岳皇子を嵯峨天皇の皇太子とするなど再評価されている。しかし、平城太上天皇は藤原種継の子である仲成と薬子の結託、810年に平城宮への遷都を試みる。嵯峨天皇はこれに対抗、仲成を佐渡に左遷、薬子の官位を剥奪、鈴鹿、愛発、不破の三関を閉じて平城太上天皇の動きを封じた。動きを封じられた平城太上天皇は出家、仲成は射殺、薬子は自殺に追い込まれた。薬子の変は主体が平城太上天皇だったということで呼び名が変えられた。
古代の勢力争いは、地図と相互関係が分かりやすい人の関係を示す系統図を見ながらの解読が大切であることを実感できる一冊。