百済滅亡による亡命渡来人が増えてきたとき、大和朝廷は九州に百済の飛び地国家ができてしまうことを懸念、渡来人を計画的に全国各地に分散させた。666年、百済人2千余人を東国に移し、669年には近江国蒲生郡に7百余人を移し、716年には高句麗人1779人を東国に移すなど。埼玉県新座市は新羅郡の表記を新座と変更して読み方を変更。日高市高麗郡、高麗山聖天院、高麗神社、高麗川、東京都狛江、大磯町高麗、高座郡、滋賀県東近江市の百済寺、枚方市の百済王神社、百済寺などがその名残り。
京の都、メインストリートは朱雀大路、今の通りで言えば千本通。朱雀門は今のJR二条駅の北あたり。平安京の設計時には北の船岡山から田辺にある甘南備山へ向けて南北線を引いて決めたという。室町時代には上京と下京に二分されていた京の街、その境目は今の二条通あたり。花の御所は今の京都御苑の北東門の外側、同志社大学の寒梅館のあたり。その東向いには相国寺があり、義満が保護した臨済宗の寺。義満は太政大臣でその中国風呼び名が「相国」、だから清盛も相国。ちなみに、参議は「宰相」、中納言が「黄門」、近衛大将が「大樹」。相国寺には室町時代には高さ109mの七重塔があったとか。東寺の五重塔が55mなのでその約2倍。今の地名は上塔之段町。
安土桃山時代の名前はその時代に建築されたお城に由来。しかし桃山の地名は伏見城廃城の跡地に桃の木が植えられたからであって、明治になって明治天皇が自分の陵をその地にしてほしいとのことから、現在では明治天皇陵となっている。そもそも伏見城は伏見宮家所有地だった指月の丘を秀吉が購入して、第一次伏見城ともいえる指月城を建てたところから始まった。大地震で崩壊したあとに、その隣の木幡山山頂付近に建てたのが伏見城。秀吉の死後は家康が入城。関ヶ原の戦い時に焼失後、家康が再建。家康、秀忠、家光の将軍宣下がその地で行われた。その後廃城し、その廃材は福山城、大阪城、三十三間堂などで再利用。桃山時代には存在しなかった桃山の当時の呼び名は木幡山、本来は安土木幡山時代である。
本書では日本国の成り立ち、66州の呼び名、京都、江戸、大阪の地名、廃藩置県と県庁、市町村合併と新地名などのエピソードが満載。