見出し画像

意思による楽観のための読書日記

経済で読み解く織田信長 上念司 ****

室町時代から戦国時代に戦乱が多かった理由はデフレによる経済不調、その結果としての政権不安定化が原因、という筆者。天下統一まであと一歩にまで迫った織田信長はデフレを終わらせ適度なインフレを実現できたのか、その経済施策はというのが本書の視点。

室町時代の金融の要は、荘園を所有し資金力豊富な寺社勢力で、土倉や酒屋などの金融業者に資金提供をしていた。日宋貿易、日明貿易の担い手も実は寺社勢力だったが、当時の日本での貨幣は宋銭であり自国通貨は流通していなかった。明朝が地球寒冷化による農業生産不足から財政難に陥り、不換紙幣を発行してインフレが過度に進行、その反動としてデフレになったのが日本の義満政権から義教政権に移行する頃。義満は日本国王とは名乗ったものの、明朝に対しては冊封体制に入り朝貢する姿勢を示したため、日明貿易は巨額の富を幕府にもたらした。大量の貨幣も日本に流れ込んだ結果日本における経済活動は活発化した。

義満が死んでその子、義持は日明貿易を1411年に停止、日本における流通貨幣量は一気に低下、旧南朝勢力や関東管領の反乱もあり、政権は不安定化。義教の時代には寒冷化による相続く飢饉により米価も不安定化してデフレ基調が亢進していく。経済の不活性化はさらなる政権不安定化を招き戦乱は拡大基調を増していった。

その頃一番力を持っていた宗教勢力といえば比叡山、それに立ち向かった勢力が幕府に保護された臨済宗の五山、さらに新興勢力として浄土真宗(一向宗)、そして日蓮宗(法華宗)という4大宗教勢力があった。南北朝後の動乱で荘園も荒廃し、興福寺と延暦寺の荘園以外は半済地、兵粮料所として武士に押領され没収されていたが、五山の荘園は幕府による保護があり増大の一途をたどっていた。荘園から上がる資金をベースに日明貿易の陰のフィクサーは京都五山で、その他十刹と合わせて巨大な寺院ネットワークを形成、幕府へのキックバックによりさらなる便益を獲得していた。寺社勢力の強弱は当初の延暦寺優位から次第に五山へと傾斜し、室町幕府との相互依存関係は応仁の乱の頃まで継続した。延暦寺はその後、義教に徹底的な弾圧を受けることになる。しかしその義教も独善的な政権運営から、嘉吉の変で赤松満祐に誅殺され、比叡山と室町幕府は同時に衰退する。

その後、勢力を増す宗教が蓮如に率いられた一向一揆で、一方幕府に代わり力を持った勢力が管領細川政元。細川氏の庇護下に入った蓮如は、延暦寺に焼かれた大谷本願寺に代わって山科に本願寺を建立。この時点で、本願寺は老舗の比叡山、落ち目にはなってきたが五山と肩を並べる勢力となる。しかし一向宗が各地で一揆を頻発するようになると誰にも制御不能となり、細川氏は日蓮宗の軍事力に目をつける。大和から始まった一向一揆が暴走して河内、摂津、和泉を席巻、京に迫る勢いを見せると、細川管領家は日蓮宗各寺に軍勢を出すように要請。この時代の京の街を守ったのは町衆による法華宗徒だった。法華宗徒は六角氏と協力して一向宗の山科本願寺を焼き討ち、一向宗徒は石山本願寺に退いた。その後、京の町衆の集まりだった法華宗徒は勢いを保てず、細川家と和解した比叡山は法華一揆を滅ぼした。そこに現れたのが織田信長。

信長の業績とその評価は次の8つ。1.検地実施→不徹底 2.兵農分離→不徹底 3.楽市楽座→既存の座を維持。4.関所廃止→功績大。5.堺を掌握→うまく利用 6.撰銭令→中途半端 7.不要な城廃却→有効 8.一向一揆の壊滅→敵対勢力は壊滅、その他は野放し。しかし関所廃止は物流に革命をもたらし、道路網が整備された。多くの城を整備して城下町を作り、道路を整備、寺内町や堺などの自治都市も取り込んで、すべてをネットワーク化、叡山焼き討ち、一向宗殲滅、結果として経済インフラを寺社勢力から取り戻した。 このやり方を踏襲した秀吉、そして家康による江戸時代の経済発展を支えるインフラ整備は信長により行われたといえる。本書内容は以上。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事