西本幸雄さんが亡くなりました。
僕は幼い時に兵庫県尼崎市に転居し、1968年まで住みました。
毎日、阪急電車で通学し、プロ野球はもちろん阪急ブレーブスのファン。
生まれて初めて行ったプロ野球のスタジアムは、西宮球場。
三色のきらびやかなカクテルライトに照らされた、天然芝の美しいグラウンド。
いつ行ってもお客さんが少なくて寂しいスタンドだったけど、
熱のこもった応援とヤジの中で、カッコよくプレーしていた、
米田、足立、梶本、スペンサー、長池、森本、住友、ウインディ、宮寺、岡村、石井、(敬称略)といった選手たち。
そして西本監督。
まだ山田、福本、加藤が入団する前です。
当時の阪急は、近鉄とともに、毎年最下位争いをする「お荷物球団」でした。
それが、西本監督のもと昭和42年に初優勝した時の感激は、忘れられません。
10月1日。西京極球場でデーゲームでした。
もし、西宮球場でナイターだったら間違いなく現場に応援に行ったと思いますが、
そんな状況なので、小学校から急いで帰って、ラジオで戦況を聞きました。
確か、相手は東映フライヤーズだったと思います。
勝って、ブレーブスの初優勝が決まった瞬間、感激で涙が出ました。
そしてその翌日。
いつものように塚口の駅から阪急電車に乗った僕の目に飛び込んできたのは、
ブレーブス球団の「祝・初優勝!!応援ありがとうございました」の中吊り広告。
会心の笑みの西本監督の、どアップの写真。
それをいつまでも見つめて、もう一度感激に浸る、塩塚少年でした。
西宮球場で幕を開けた巨人との日本シリーズ。
第2戦をスタンドで観戦しましたが、王さんのホームランなどもあり、敗戦。
シリーズも2-4で敗退。
そして、結局日本シリーズに8回出場して1度も日本一にはなれなかったけど、
西本監督は、僕の中では日本一の監督です。
西本さん、ありがとうございました。
あの、電車の中吊り広告の笑顔、忘れません。
僕は幼い時に兵庫県尼崎市に転居し、1968年まで住みました。
毎日、阪急電車で通学し、プロ野球はもちろん阪急ブレーブスのファン。
生まれて初めて行ったプロ野球のスタジアムは、西宮球場。
三色のきらびやかなカクテルライトに照らされた、天然芝の美しいグラウンド。
いつ行ってもお客さんが少なくて寂しいスタンドだったけど、
熱のこもった応援とヤジの中で、カッコよくプレーしていた、
米田、足立、梶本、スペンサー、長池、森本、住友、ウインディ、宮寺、岡村、石井、(敬称略)といった選手たち。
そして西本監督。
まだ山田、福本、加藤が入団する前です。
当時の阪急は、近鉄とともに、毎年最下位争いをする「お荷物球団」でした。
それが、西本監督のもと昭和42年に初優勝した時の感激は、忘れられません。
10月1日。西京極球場でデーゲームでした。
もし、西宮球場でナイターだったら間違いなく現場に応援に行ったと思いますが、
そんな状況なので、小学校から急いで帰って、ラジオで戦況を聞きました。
確か、相手は東映フライヤーズだったと思います。
勝って、ブレーブスの初優勝が決まった瞬間、感激で涙が出ました。
そしてその翌日。
いつものように塚口の駅から阪急電車に乗った僕の目に飛び込んできたのは、
ブレーブス球団の「祝・初優勝!!応援ありがとうございました」の中吊り広告。
会心の笑みの西本監督の、どアップの写真。
それをいつまでも見つめて、もう一度感激に浸る、塩塚少年でした。
西宮球場で幕を開けた巨人との日本シリーズ。
第2戦をスタンドで観戦しましたが、王さんのホームランなどもあり、敗戦。
シリーズも2-4で敗退。
そして、結局日本シリーズに8回出場して1度も日本一にはなれなかったけど、
西本監督は、僕の中では日本一の監督です。
西本さん、ありがとうございました。
あの、電車の中吊り広告の笑顔、忘れません。