どうも☆
ちょっと前の記事で、イメージの大切さを、偉そうにも、説いてみたのですが
それは、まぁ、結論としては
「他人が抱いているであろう自分に関するイメージを想像できれば、失敗しないで済むこともある」
というものであったのですが(2006年10月31日付記事参照)
どうでしょうか?
あの、ライブドア事件並びに村上ファンド事件を「イメージの問題」と一言で片付けてしまうのは
アレなんですけど(その、【アレ】が聞きたいんですけど…)
でも、私自身、それに以上でもそれ以下でもないような気がするのです。
だから、自分で考えた先の論理は、結構自信があるんです。というか、そのようにしか考えれない。
証券法がどうとか、M&Aがどうとか、TOBがどうっていうのは
木で言ったら、枝のようなもので
確かにそのような法的な論理も用いて論じるべきなんですが
そういう議論は専門家が色々やってたので
私なりに考えたら、そのような結論がでたのです。
それで、です、今回は。
先日にゼミの教授に教授室に呼ばれまして、ゼミ論文の指導をして頂いたのですが
それと平行して、別の、今日の政治についてなりなどを話してみると
結構、自分の考えの貧困さというのが浮き彫りになったりしたのです。
私は、戦後60年経ち、そして、これからも年月は
う~ん
まぁ
うまく、風流にいうと
川の流れのように
過ぎ去っていくのですが
そしたら、戦争経験者は必然的に居なくなりますよね。
そして、それに平行して日本がこのまま非戦を貫いているとしたら
何十年後は(今もですが)戦争を経験したことが全くない(自衛隊の方々以外の)人々で
国家は成り立っているのですが
その時に、我々は、いつまでも「戦争をしない」と言い続けることができないと思うのです。
戦争を実際に経験したから、戦争の怖さを知っているから、戦争に反対するのは理解できるのですが
知らない我々は、知らないが故に、いつか、何かの拍子で、戦争に踏み切ってしまうような
気が
していました。
今の平和は、戦争体験者の生存によって支えられているのだと。
だから、我々若者は、戦争体験者の方々の体験談、または映像資料、文献等で戦争を知るのですが
それは、あくまで、アタマでしか理解出来ていないような気がするのです。
だから、どれほどの時間を費やして話を聞いても、同じレベルの理解までは
我々が実際に戦争を経験をしない限り、到底及ばないのではと。
しかし、そこで、私は教授に反論されました。
「人間はそんなに愚かではない」と。
人間という生き物だけが持つイマジネーションによって我々は戦争に踏み出さずにいられる
ということを気付かされました。
確かに、自分が人を殺さないことの歯止めになっているのも
もしかしたら、想像力かも知れません、考えようによれば。
人を殺した後の自分の姿・処遇等のリスクを想像できるからこそ、私達、否、少なくとも
人を殺さないでいられるのです。
しかし、それはとても悲しいことなのも確かです。
法律で定められているから人を殺してはいけないんだ、ということになります。
(こんなことを考えると、たしかに、なんで人を殺してはいけないのか
自分の中で疑問になってきましたが…)
私は、自分で想像力が大事だとか言ってたくせに
そういう事(戦争)に関しては
想像力に限界を感じていたのかも知れません。そうなのです。
『嗚呼、想像力って素晴らしい』
…
それで、結局、教授には「日本人の、振り子のような極端に考えてしまう崇拝思考を心配したら?」
って言われました。
ほらぁ、1945年の8月15日を境に、日本人って、全く抗う事もなく、それまで鬼畜としてた米英を
受け入れるどころか、崇拝し始めたじゃないですか。
鬼畜はどっかに行ってしまいました。
それについて、僕自身考えてみたんですけど…
僕、の答えとしては
「日本人って、真に信じるモノを持ってない」って、結局これだと思います。詳細は後日。
ちょっと前の記事で、イメージの大切さを、偉そうにも、説いてみたのですが
それは、まぁ、結論としては
「他人が抱いているであろう自分に関するイメージを想像できれば、失敗しないで済むこともある」
というものであったのですが(2006年10月31日付記事参照)
どうでしょうか?
あの、ライブドア事件並びに村上ファンド事件を「イメージの問題」と一言で片付けてしまうのは
アレなんですけど(その、【アレ】が聞きたいんですけど…)
でも、私自身、それに以上でもそれ以下でもないような気がするのです。
だから、自分で考えた先の論理は、結構自信があるんです。というか、そのようにしか考えれない。
証券法がどうとか、M&Aがどうとか、TOBがどうっていうのは
木で言ったら、枝のようなもので
確かにそのような法的な論理も用いて論じるべきなんですが
そういう議論は専門家が色々やってたので
私なりに考えたら、そのような結論がでたのです。
それで、です、今回は。
先日にゼミの教授に教授室に呼ばれまして、ゼミ論文の指導をして頂いたのですが
それと平行して、別の、今日の政治についてなりなどを話してみると
結構、自分の考えの貧困さというのが浮き彫りになったりしたのです。
私は、戦後60年経ち、そして、これからも年月は
う~ん
まぁ
うまく、風流にいうと
川の流れのように
過ぎ去っていくのですが
そしたら、戦争経験者は必然的に居なくなりますよね。
そして、それに平行して日本がこのまま非戦を貫いているとしたら
何十年後は(今もですが)戦争を経験したことが全くない(自衛隊の方々以外の)人々で
国家は成り立っているのですが
その時に、我々は、いつまでも「戦争をしない」と言い続けることができないと思うのです。
戦争を実際に経験したから、戦争の怖さを知っているから、戦争に反対するのは理解できるのですが
知らない我々は、知らないが故に、いつか、何かの拍子で、戦争に踏み切ってしまうような
気が
していました。
今の平和は、戦争体験者の生存によって支えられているのだと。
だから、我々若者は、戦争体験者の方々の体験談、または映像資料、文献等で戦争を知るのですが
それは、あくまで、アタマでしか理解出来ていないような気がするのです。
だから、どれほどの時間を費やして話を聞いても、同じレベルの理解までは
我々が実際に戦争を経験をしない限り、到底及ばないのではと。
しかし、そこで、私は教授に反論されました。
「人間はそんなに愚かではない」と。
人間という生き物だけが持つイマジネーションによって我々は戦争に踏み出さずにいられる
ということを気付かされました。
確かに、自分が人を殺さないことの歯止めになっているのも
もしかしたら、想像力かも知れません、考えようによれば。
人を殺した後の自分の姿・処遇等のリスクを想像できるからこそ、私達、否、少なくとも
人を殺さないでいられるのです。
しかし、それはとても悲しいことなのも確かです。
法律で定められているから人を殺してはいけないんだ、ということになります。
(こんなことを考えると、たしかに、なんで人を殺してはいけないのか
自分の中で疑問になってきましたが…)
私は、自分で想像力が大事だとか言ってたくせに
そういう事(戦争)に関しては
想像力に限界を感じていたのかも知れません。そうなのです。
『嗚呼、想像力って素晴らしい』
…
それで、結局、教授には「日本人の、振り子のような極端に考えてしまう崇拝思考を心配したら?」
って言われました。
ほらぁ、1945年の8月15日を境に、日本人って、全く抗う事もなく、それまで鬼畜としてた米英を
受け入れるどころか、崇拝し始めたじゃないですか。
鬼畜はどっかに行ってしまいました。
それについて、僕自身考えてみたんですけど…
僕、の答えとしては
「日本人って、真に信じるモノを持ってない」って、結局これだと思います。詳細は後日。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます