釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

非文系的雑談 7 『科学知識伝達工学』(立花隆のインタビュー)

2011-10-10 09:22:22 | 非文系的雑談
テレビの100年インタビューという番組で、先日、立花隆がインタビューを受けて、いろいろな話をした。それを私は観たが、大変、面白かった。

主たる話題は科学についてであった。

その話の要点をここで、ごく簡単に概略紹介すると、

1.20世紀は圧倒的に科学の時代であり、全ての学問が科学化され、事実上、科学が全人類にとって唯一絶対的・普遍的・必要不可欠な存在になった。

2.その科学は各分野に専門科・細分化され続け、各専門分野間の相互理解は事実上不可能になっている。その傾向は更に激増しつつある。

3.その結果の最大問題は、科学の専門家達と非専門家達との間の科学知識の圧倒的な乖離である。

4.つまり科学の非専門家たちは、科学が自身にとって唯一絶対的・必要不可欠な存在であるにも関わらず、その科学に無知である。

5.このことが今世紀に入って更に深刻な問題の一つとなりつつある。

ごくごく簡略して言えば立花隆の問題提起は上記のようになると私は思うが、これは、おそらく誰も納得できる話だと思う。

科学の非専門家達とは、つまり、私たち一般庶民・国民に相当する。

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ここで具体例を挙げよう。

3/11に例の原発事故が発生した。原発を、ここで象徴的に科学と言い換えよう。

一部の専門家( それも、ごくごく僅かの専門家 )を除いて、私たち非専門家は、原発(科学)の知識は皆無であろう。つまり無知である。

その無知なる原発(科学)に事故が発生したとき、その騒動がどうなるかは先刻ご承知のとおりである。

もし仮に、私たちに原発(科学)の真の知識が多少なりとも言えども、あったとしたら、あの騒動は、もう少し変わった行動になっていただろう。たぶん、より良い方向に。
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立花隆は、ここで、ある提案をしている。

その提案とは、科学の専門(家)と、圧倒的多数を占める非専門(家)との間に、言わば科学知識伝達工学(家)の早急な設立を提案している。

つまり科学の一般素人でも、その科学の知識が、概要レベルであれ、理解できるような方法論・工学・制度の早急な設立の提案である。

早い話、『子供の科学』の本格的な学問化である。

言ってみれば、(これは立花隆の言葉だったと思うが、) 知識伝達工学の早急な設立とその工学者の養成と制度的な実践(教育)である。

私は、これは傾聴すべき卓見だと思う。
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以下余談。

インタビュアーが彼に『今後は、どういうお仕事を計画していますか?』と質問したら、『いやー、私はもう歳だからね。』と言いつつ、それに付け加えたことがフルッていた。いわく『ゲーテは80代まで仕事したからね。』と!!

私は微笑したよ。ゲーテを出してくるとは!! いかにもこの人らしい。

しかし、おそらく今の日本で、政治から科学まで、なんでもござれの知識人は、立花隆以外に誰がいるだろうか?

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もう一つの余談。
『無限の果てに何があるか』という一般読者向けの数学の本がある。(足立恒雄著、知恵の森文庫、光文社)

著者によれば、現在の世間一般の数学の知識は、中世の暗闇段階だそうである。この本は、その中世の暗闇段階を20世紀前半頃までの数学レヘルに高めようという目的で書いたと前書きで言っている。

この本の帯には「文科系」の読者へお勧めとPRしている。

科学は数学抜きでは存在しえないが、数学の非専門家も、数学の知識は『中世の暗闇段階』だと言えるのは妥当かも知れない。

私は病院の待合室などで再読している。お勧めの本である。

58. 『 過ぐる日は はるけきかもと 言ひしかど・・・』

2011-10-06 11:43:40 | 釋超空の短歌
『 過ぐる日は はるけきかもと 言ひしかど、
   人は すなわち はるけくなりつ 』
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私の家の近くに運動公園がある。その公園の入り口近くに、小さなツツジの群れが、その公園を囲むように植えられている。

もう何十年前になるだろうか、その頃は私が飼っていた犬も健在で、ほぼ毎日のように私は犬を連れてその公園へ散歩に出かけたものだった。

その公園の周りのツツジの群れの中に小さな空洞が出来ている場所があった。それは少しばかり地面がツツジで覆われるような形状の空洞であった。

ある日、いつものように犬と其処を通るとき、その空洞に、二匹の子猫が寄り添うように居た。二匹とも、全身真っ白な子猫で、同じ親から生まれた捨て猫であることは明らかだった。大きさから見ると生後一ヶ月ほどらしかった。

私は、それまで似たような捨て猫を何匹も飼ってきていて、当時も既に家には二匹の猫が同居していた。

さて、どうしたものかと私は悩んだ。
その公園には比較的多くの人が、いつも出入りしている。この空洞も人目につきやすい。

私がこの子猫たちを見捨てても、誰か動物好きな親切な人が見つけて育ててくれるだろうと私は割り切った。そして知らぬふりしてその空洞を通り過ぎた。

今や、あれから何十年も過ぎた。犬ももう亡くなっていない。

そして私だけは今も朝のウオーキングでその公園へ行く。
その公園の周りのツツジも当時のままだ。小さな空洞もそのまま在る。

私はその、何も無い空洞を通るとき、あの子猫たちはどうなっただろうかと思いやらずにはいられない・・・否、思いだすまいとしているのだが。
私もこの子猫たちを見捨てたのだから。

気障ったらしく甘ったれて言えば、掲題のうたは、私には、この子猫たちへの挽歌といえよう。この子猫たちが幸福な生をまっとうしたことを願いつつ。

雑談: 次に到来するカタストロフィーは?

2011-10-05 10:44:07 | その他の雑談
2011/3/11。昨日と変わらぬ日常が今日も続くかと誰も思っていたとき、突然、それは起こった。それは、千年に一度の『想定外』の事態だと言われたりする。

千年に一度の事態が『想定外』なら、『想定』されている事態は現実に近々起こるはずだ。 

ネット・サーフィンしていたら下記の記事が目についた。

http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-asaitakashi.html

私は、経済・金融等は全くの素人である。が、このテの話は門外漢の私にもチラチラと耳にしてきた。しかし、2011/3/11を経験してしまった以上、このテの話は私には現実味をおびてきた。だって千年の一度のことさえ起きたのだから。

つまり私は何も知らないお坊ちゃんで、眼前で交通事故を目撃して、実は俺も車に轢かれるかも知れないと悟ったという類の呑気さに私は呆けていたというわけだ。

とんでもない事態が、この国で現実に起きつつあり、その結果による破局が、20**年*月*日に確実に現実化するらしい。そのカタストロフィーが、私には現実味をおびてきたのだ。

次のシナリオ。

20**年*月*日。平成の徳政令の断行。銀行預金封鎖。スーパーインフレの発生。札束はただの紙きれ化。その後の悲惨さは推して知るべし。

しかし、特定の裕福な日本人は既にテをうってあって日本脱出済み。

残された、一般庶民は途方にくれるばかり。

『まさか日本がつぶれるとは!』。
『もっと早く日本から逃げ出しておけばよかったのに!! と言っても何のツテもないし!!』
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2011/3/11以後に現実化するカタストロフィーは、これかも知れぬ。

さて、どうすりゃあいいのさ。ほんとに。
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『世の中は地獄の上の花見かな』 いや『紅葉狩り』か。

57. 『夜ふかく 薬をつかひ起きゐたる憂きならはしも・・・』

2011-10-03 14:32:22 | 釋超空の短歌
『夜ふかく 薬をつかひ起きゐたる憂きならはしも、今は絶えたり 』
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精神科医・飯田眞の小論によると、釋超空というより折口信夫は、彼の民俗学研究に没頭するとき、『コカインを濫用しながら、不眠不休にて仕事に勵』んでいたらしい。

釋超空における歌と折口信夫の民俗学との関係は、飯田眞の小論に拠れば、

『詩歌が日常的、意識的、現在的なる晝の世界に屬し、比較的直截に己の心情を吐露せるものといへるに對し、民俗學は無意識的、蒼古的なる夜の世界に屬し、折口が精神の深層の投影されたるごとくに見ゆ』とある。

従って、折口信夫が彼の民俗学の世界へと入り込んでいくには、彼の感性を意識及び無意識の世界へと導いていかねばならず、その際、掲題のうたのように、
『夜ふかく 薬をつかひ起きゐたる憂きならはし』をする必要があったらしい。
そのために、コカインの『濫用』をしたらしい。

コカインの薬理学的効果はWikipediaによれば下記のようだ。
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粘膜の麻酔に効力があり、局所麻酔薬として用いられる。
中枢神経に作用して、精神を高揚させる働きを持つ。

コカインを摂取した場合、中枢神経興奮作用によって快感を得て、
とても爽快な気分になることができる。
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折口信夫は彼の民俗学の研究方法として、古代人とのある種の共感を、意識化・無意識下で感得するためにコカインを使用していたらしい。

これは私にはとても興味深いことだが、私は折口民俗学は全くの素人だから、その詳細は分からない。

ただ、繰り返すことになるが飯田眞の下記のコメントは釋超空のうたを楽しんでいる者としては留意しておいたほうがいいようだ。

『詩歌が日常的、意識的、現在的なる晝の世界に屬し、比較的直截に己の心情を吐露せるものといへるに對し、民俗學は無意識的、蒼古的なる夜の世界に屬し、折口が精神の深層の投影されたるごとくに見ゆ』

釋超空の『晝の世界』にも、折口信夫の『夜の世界』が当然、しのびこんできているに違いないと私は思う。そのような気配は、私は、いままで見てきた彼のうたから、うすうす感じてきている。

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北原白秋が釋超空を『黒衣の旅人』と評したのは、実は、折口信夫の『黒衣の旅人』だったらしいことが、今更ながら私は理解できるような気がする。

飯田眞の指摘、即ち『折口民俗學は無意識的、蒼古的なる夜の世界に屬し、折口が精神の深層の投影されたるごとくに見ゆ』という指摘が、以前にも再三ふれた山本健吉の解説に、全く新しい視点を私に与えてくれる。
その解説を再三ながら引用しよう。
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北原白秋に「折口さんの歌について」と傍書した『黒衣の旅びと』というエッセイがある。その一節に言う。

『万葉でいへば、同じ旅の歌でも、人麿より黒人くろひと)に、この人は近く、自然の観照の於いても、赤人よりも黒人に深みを見られるごとくに、この人は複雑である。

しかも黒人の境地を出発として、涯(はて)しもない一つ道に踏み出したかの観がある。 この特異にして幽鬼(いうき)のやうな経験者は、幽かに息づいては山沢をわたり、ひそかに息をこらしては林草の間をたづねてゆく。

音こそきかね。道のはるかに立つ埃(ほこり)にも眼を病むのである。』

これは超空の人および歌の特質をよく見据えた言葉であった。超空の旅の歌の「ひそけさ」や「かそけさ」が持つ不思議な寂寥感ーーと白秋は言い、そこに尋常人の鍛錬(たんれん)によっては得られぬ、不気味なほどの底から光って響いて来る、未だかって見ないひとりの人の歌の本質を見た。

『若しかういふ旅人と山奥の径や深い林の中で遭遇ったら、それは明るい昼の日射しの下ではあっても、冷々とした黒い毛ごろもの気色や初めて触れて来るたましひの圧迫を感じずには、すれちがへない或るものがあらう』(同) とまで言っている
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上記解説での『特異にして幽鬼(いうき)のやうな経験者』とは、実は、『無意識的、蒼古的なる夜の世界』の折口信夫に他ならなかったのだ。
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掲題のうたは、昭和23年に出版された歌集『遠やまひこ』に掲載されている。
折口信夫がコカインを濫用していたのは昭和4年の『古代研究』出版の頃らしいから、掲題のうたの頃にはコカインはやめていたようだ。

56. 『かたくなに 人な憎みそ をとめ子は・・・』

2011-10-02 13:18:52 | 釋超空の短歌
『かたくなに 人な憎みそ。
 をとめ子は
  あしきも よきも、
 愛(かな)しきものを
***
以前、紹介した、飯田眞という精神科医による『折口信夫 診断・日本人』と題された小論に以下の記述がある。釋超空は女性恐怖症だったと言うのだ。

『第二は女性恐怖にて、恐らく此が第一の不潔恐怖の原型と考へ得るものにて、女性を不潔視し、身邊にはほとんど女性を近づけず、食事は女性に作らせず、妻帶者の弟子の入りたる風呂には入らず、電車、バスの中にて女性の髮の毛觸るれば、すさまじき嫌惡感を示せり。信夫の恐怖覺えざる女性は、親族の他はおそらく身邊にありし老婢、あるいは「神の嫁」としての巫女的なる役割にとどまりをりたる女性ならむ。』

私は上記箇所を読んで意外な気がした。私がいままで見てきた釋超空の『をとめ』のうたからの印象と全く違うからだ。今まで私がみてきたうたは以下のうただ。

5. 『をとめ一人 まびろき土間に立つならし。
    くらき その声 宿せむと言ふ 』

21. 『 邇摩(にま)の海
     磯に向かひて、
      ひろき道。
     をとめ一人を
   おひこしにけり 』

27. 『 をとめ居て、ことばあらそふ声すなり。
      穴井(あない)の底の くらき水影(みずかげ) 』

43. 『 をとめ居て 起(た)ち居 寝し居間を見たりけり。
   あはれに結(ゆ)へる 残り荷の紐 』

これらのうたの感想はそれぞれの箇所で書いてきた。
しかし、私は作者(釋超空)の、これらのうたでの『をとめ』たちへの『不潔視』は全く感じなかった。

むしろ、これらの『をとめ』たちに、作者は、畏敬というか敬愛というか、ある憧憬の念をすら感じているように私には思えた。

ただ、5.や27.のうたには、上記の精神科医の言うように、この『をとめ』たちには、原初的というか土俗的というか、そういう『巫女』的な呪術的・土俗的なモノは私も確かに感じる。

私は精神病理の知識は皆無であるから、上記の精神科医による釋超空という人の精神病理学的な分析の正当性の可否は分からないし、更に言えば、私にとってどうでもよいことだ。

私にとっての最大関心事は、『供養等』の釋超空であり、『きずつけづあれ』の釋超空である。私が、それらのうたを通して何を空想し瞑想し迷想したかがこのブログの趣旨であり、釋超空その人の自身の精神病理は第二義的なものでしかない。

***
私の本では、上記27.のうたの次に下記のうたが載っている。
このうたの『処女』に私は呪術的・土俗的な印象をもつこそすれ、『女性を不潔視』などの印象はさらさらない。

『 処女のかぐろき髪を あはれと思ふ。
  穴井の底ゆ、水汲みのぼる 』