昨晩のNHK「所さん!大変ですよ」。テーマは「人生の楽園!?謎の“改造軽トラ”」。
軽トラの荷台に載せることができる小屋を手作りする人々が増えている。
わずか1.6畳のスペースに、ベッドはもちろん、水回りや電気まで完備し、
移動しながら暮らすことができる「モバイルハウス」だ。
退職後、旅行を楽しみたくても余裕がない高齢層や、
自分の書斎が持てない中年サラリーマンなどの心をつかみ、
作り方を教えるDIY教室は、毎回、満員御礼だという。
小さな車体に多くの希望を載せた軽トラの摩訶不思議な世界。(番組HP)
この「軽トラハウス」、ホームセンターで手に入る材料で自作可能で、費用は数万円~20万円で済むらしい。
寸法と最大積載量さえクリアできれば、「車体の改造」ではなく、「貨物」という扱いになるそうだ。
退職後に日本縦断の旅に出た夫婦、ひとりの時間を確保するために書斎として使っている一家の父親など、
その用途は微笑ましい。
中にはこれを「住み家」としている人もいる。そのひとり、ある出演女性の言い分が引っかかった。
彼女は東日本大震災の時、「それまで享受してきた便利さに疑問を抱き」、
「自分の暮らしは誰かを踏み台にしている。今あるもので充分生活していける」と、
この軽トラ生活を選んだのだという。
「誰かを踏み台にしている」と悟ったから、誰にも負担をかけぬよう、
「自給自足」で自己完結できる生活を始めた…とでもいうのなら、話は分かる。
しかし、この軽トラ生活を送ることが果たして、「誰かを踏み台にしていない」ことになるのだろうか?
軽トラで道路を走ることも、行く先々で駐車スペースに車を停めて宿泊することも、
そして何より、自前の上下水道を持たない生活であるがゆえの日々の炊事や排泄も、みんな、
「誰かの負担に基づいて作られたもの」を利用しなくては成り立たないと思うのだが。
そう、彼女の言う、「今あるもので充分生活していける」の「今あるもの」とは、
「誰かの負担によって築かれた社会資本」を指すのである。
それに寄りかかることを前提とした生活というのは、「誰かを踏み台にしていない生活」どころではない。
その正反対の、「誰かを踏み台にしているからこそ成り立つ生活」、
そしてまた、「誰かから踏み台にされないように立ち回る生活」ではないか。
彼女はディレクターの前で1か月の出費を紙に書き出していき、
「わずか3万円しかかからないんですよ」と言う。
だが、その費用項目には、当然のごとく、税金も、社会保険料も書き込まれていない。
(たまにアルバイトはしているようだから、全く納税していないわけでもないだろうが、
少なくとも彼女の意識の「出費」の中には、そうした概念は含まれていないと見える)
「誰かを踏み台にした生活」がいけないと言っているのではない。
人は真の自給自足生活でも遂げない限り、誰かを踏み台にしなければ生きていけないのだから、
所詮は「程度問題」に過ぎない。
だが、「誰かを踏み台にしている」事実を批判的に捉えているのなら、
彼女は言行不一致をきたしていると思う。
猛暑の日、エアコンの効いた施設に入り込んで涼んでおきながら、
「私は電力を使う社会に疑問を感じています」と、団扇でパタパタ扇ぐ真似事をしている
…そんな感じの滑稽さを覚えるのだ。
たとえばの話、「無為徒食ですが、世間の恩沢に浴して生きています」とちゃっかり言えてしまう人間は、
図々しくはあるけれど、人によってはまあ、憎めないところもあるかも知れない。
でも、そのように生き延びるつもりなら、自分の境遇に対する一服の「含羞」は必要だろう。
「現代社会は人を踏み台にしている」と高邁な批判的御託を並べながら、
その社会の便益にはしっかりあずかって憚らない人間とは、随分と臆面もないものだよなあ、と思ってしまう。
僕は世捨て人に憧れながら、それになり切れないでいる人間だが、その自覚があるゆえに、
「エセ」の“世捨てパフォーマンス”には、このように厳しい目を注いでしまうのだ。
軽トラの荷台に載せることができる小屋を手作りする人々が増えている。
わずか1.6畳のスペースに、ベッドはもちろん、水回りや電気まで完備し、
移動しながら暮らすことができる「モバイルハウス」だ。
退職後、旅行を楽しみたくても余裕がない高齢層や、
自分の書斎が持てない中年サラリーマンなどの心をつかみ、
作り方を教えるDIY教室は、毎回、満員御礼だという。
小さな車体に多くの希望を載せた軽トラの摩訶不思議な世界。(番組HP)
この「軽トラハウス」、ホームセンターで手に入る材料で自作可能で、費用は数万円~20万円で済むらしい。
寸法と最大積載量さえクリアできれば、「車体の改造」ではなく、「貨物」という扱いになるそうだ。
退職後に日本縦断の旅に出た夫婦、ひとりの時間を確保するために書斎として使っている一家の父親など、
その用途は微笑ましい。
中にはこれを「住み家」としている人もいる。そのひとり、ある出演女性の言い分が引っかかった。
彼女は東日本大震災の時、「それまで享受してきた便利さに疑問を抱き」、
「自分の暮らしは誰かを踏み台にしている。今あるもので充分生活していける」と、
この軽トラ生活を選んだのだという。
「誰かを踏み台にしている」と悟ったから、誰にも負担をかけぬよう、
「自給自足」で自己完結できる生活を始めた…とでもいうのなら、話は分かる。
しかし、この軽トラ生活を送ることが果たして、「誰かを踏み台にしていない」ことになるのだろうか?
軽トラで道路を走ることも、行く先々で駐車スペースに車を停めて宿泊することも、
そして何より、自前の上下水道を持たない生活であるがゆえの日々の炊事や排泄も、みんな、
「誰かの負担に基づいて作られたもの」を利用しなくては成り立たないと思うのだが。
そう、彼女の言う、「今あるもので充分生活していける」の「今あるもの」とは、
「誰かの負担によって築かれた社会資本」を指すのである。
それに寄りかかることを前提とした生活というのは、「誰かを踏み台にしていない生活」どころではない。
その正反対の、「誰かを踏み台にしているからこそ成り立つ生活」、
そしてまた、「誰かから踏み台にされないように立ち回る生活」ではないか。
彼女はディレクターの前で1か月の出費を紙に書き出していき、
「わずか3万円しかかからないんですよ」と言う。
だが、その費用項目には、当然のごとく、税金も、社会保険料も書き込まれていない。
(たまにアルバイトはしているようだから、全く納税していないわけでもないだろうが、
少なくとも彼女の意識の「出費」の中には、そうした概念は含まれていないと見える)
「誰かを踏み台にした生活」がいけないと言っているのではない。
人は真の自給自足生活でも遂げない限り、誰かを踏み台にしなければ生きていけないのだから、
所詮は「程度問題」に過ぎない。
だが、「誰かを踏み台にしている」事実を批判的に捉えているのなら、
彼女は言行不一致をきたしていると思う。
猛暑の日、エアコンの効いた施設に入り込んで涼んでおきながら、
「私は電力を使う社会に疑問を感じています」と、団扇でパタパタ扇ぐ真似事をしている
…そんな感じの滑稽さを覚えるのだ。
たとえばの話、「無為徒食ですが、世間の恩沢に浴して生きています」とちゃっかり言えてしまう人間は、
図々しくはあるけれど、人によってはまあ、憎めないところもあるかも知れない。
でも、そのように生き延びるつもりなら、自分の境遇に対する一服の「含羞」は必要だろう。
「現代社会は人を踏み台にしている」と高邁な批判的御託を並べながら、
その社会の便益にはしっかりあずかって憚らない人間とは、随分と臆面もないものだよなあ、と思ってしまう。
僕は世捨て人に憧れながら、それになり切れないでいる人間だが、その自覚があるゆえに、
「エセ」の“世捨てパフォーマンス”には、このように厳しい目を注いでしまうのだ。