当時は古くて、みすぼらしい議員宿舎だった。一九九二年の冬だったか。一室のチャイムを押すと、当選回数も浅い若い国会議員が顔を出す。部屋に上がってもいいが、話はちょっと待ってくれという▼何事かと思えば、テレビドラマを見たいという。新米記者の身である。付き合うしかない。二人の男が宿舎でドラマを黙って見る。奇妙な光景である▼ドラマの中でベテランの国会議員がゴルフ場の建設に絡み、怪しげなカネを業者からもらっていた。この議員の長男でもある公設秘書は悩み続ける。自分もいずれは父親の後を継いで政治家になりたい。それでも、こんなことを許していいのか。秘書は迷った末に父親の不正を告発する。そんな筋だったか▼テレビの前の議員を盗み見て、うろたえる。目を潤ませている。理由は分からない。議員は黙ってテレビを消し、こちらは記事にもならぬ国会の見通しを聞き帰った。二十四年前の寒い晩である▼話はこれでおしまいである。付け加えるとすれば、議員のその後か。当選を重ねた。出世した。そしてあのドラマではないが、現金授受問題で刑事告発され、嫌疑不十分で不起訴処分となった▼昨日、政治活動を再開したと聞いた。人間らしくまっとうに生きよう。そう語る青臭いドラマの題名を思い出した。「愛という名のもとに」。あの夜を思い出すことはあるだろうか。
エルヴィン・フォン・ベルツ | |
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生誕 | 1849年1月13日![]() |
死没 | 1913年8月31日![]() |
職業 | 医師、医学者 |
配偶者 | 花ベルツ |
ベルツの日本観[編集]
彼の日記や手紙を編集した『ベルツの日記』には、当時の西洋人から見た明治時代初期の日本の様子が詳細にわたって描写されている。そのうち来日当初に書かれた家族宛の手紙の中で、明治時代初期の日本が西洋文明を取り入れる様子を次のように述べている。
このように明治政府の西洋文明輸入政策を高く評価しその成果を認めつつ、また、明治日本の文明史的な特異性を指摘したうえで、他のお雇い外国人に対して次のような忠告をしている。
このような大跳躍の場合、多くの物事は逆手にとられ、西洋の思想はなおさらのこと、その生活様式を誤解して受け入れ、とんでもない間違いが起こりやすいものだ。このような当然のことに辟易してはならない。ところが、古いものから新しいものへと移りわたる道を日本人に教えるために招聘された者たちまで、このことに無理解である。一部のものは日本の全てをこき下ろし、また別のものは、日本の取り入れる全てを賞賛する。われわれ外国人教師がやるべきことは、日本人に対し助力するだけでなく、助言することなのだ。
文化人類学的素養を備えていた彼は、当時の日本の状況に関する自身の分析・把握を基にして、当時の日本の状況に無理解な同僚のお雇い教師たちを批判した。さらに、彼の批判は日本の知識人たちにも及ぶ。
不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。