質問をするということは、実に難しい営みだ。質問の仕方次第で答えが大きく変わりかねない。その好例が、「支持政党なし」という有権者が、どれほどいるかとの調査結果だ▼世論調査で、「支持政党はどの政党か?」と質問されて、「支持政党なし」と答える人は最近の調査だと、およそ四割。これは支持政党があることを暗黙の前提にした聞き方だ。しかし、「支持する政党があるか?」という聞き方だと、「ない」と答える人が六割になる。質問の仕方一つでそれほど差が出るのだ▼政権交代も重なり、政党の支持率は大きく変動してきたが、支持政党の有無をずばり尋ねる調査では、ここ十年ほど「支持政党なし」と答える人が、六、七割を占めているという▼だからだろう。今回の参院選では比例代表に「支持政党なし」という名の政治団体が出た。支持政党を聞かれて、「支持政党なし」と答えると、どうなるか。実にややこしい▼そもそも選挙とはどういう営みなのか。英国の名宰相チャーチルは、有権者に「おまえに投票するくらいなら、悪魔に入れる方がましだ」と、罵倒されたことがあったという。それに答えて曰(いわ)く、「では、あなたのそのご友人が出馬しない場合は、私に一票入れてくださいますな」▼投票とは、苦渋の選択もいとわず、「無」から「有」を探り出す営み。そう教えてくれる逸話である。
英語の名言・格言【ウィンストン・チャーチル】
Winston Churchill
ウィンストン・チャーチル(1874年~1965年)
英国の政治家、ノーベル文学賞受賞。第二次世界大戦中に首相となり、英国の戦争を主導した。
【 生涯 】
1874年、政治家の長男として生まれる。母は米国人。祖父がアイルランド総督だったため幼少期はアイルランドで過ごす。成績が悪く、大学には進学せず、陸軍士官学校に入学する。
1895年にスペイン軍に従軍して初めて実戦を経験。1899年に除隊し、庶民院議員選挙に保守党候補として出馬するも落選。1900年の第二次ボーア戦争には従軍記者として従軍したが捕虜となる。しかし、捕虜収容所から脱走したことによりチャーチルは知名度を上げる。
1900年の総選挙で保守党候補として初当選を果たす。その後、自由貿易護持の立場を明確にしない保守党を見限り、自由党へ移籍。1908年、33歳の若さで通商大臣に就任。1911年に海軍大臣に就任。1914年に第一次世界大戦が始まると失敗もあり海軍大臣を外される。しかし、1917年に再入閣を果たし、戦車の増産に努め、英国の勝利に貢献した。
1923年、自由党が労働党に接近するとチャーチルは反社会主義の立場からこれに反発し、自由党を離党。1924年の総選挙には保守党候補として当選。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発。これを機にチャーチルは海軍大臣として閣僚に復帰。1940年に首相に就任。同時期に西方電撃戦を開始したドイツ軍に惨敗し、フランスは陥落。しかし、英国本土の制空権を狙うドイツ空軍の攻撃は撃退する。
1940年11月にルーズベルトが米国大統領に三選したことで米国の英国支援が本格化。1941年6月にヒトラーが独ソ戦を開始したことでスターリンのソビエト連邦と同盟関係になる。そして、1941年12月に日本が真珠湾を攻撃したことで米国とも同盟関係になる。1943年11月、チャーチル、ルーズベルト、スターリンの三巨頭によるテヘラン会談に基づきノルマンディー上陸作戦が決行され、膠着状態が崩れる。
1945年5月、ドイツが無条件降伏。その後、解散総選挙を行うも、保守党は惨敗し、チャーチルは政権を失う。チャーチルは、その後も反共外交を行い、ヨーロッパ合衆国構想などを推し進めた。また、チャーチルの回顧録『第二次世界大戦』は、1953年にノーベル文学賞を受賞。1965年、90歳の生涯を閉じる。
Never, never, never, never give up.
- Winston Churchill (ウィンストン・チャーチル) -
決して屈するな。決して、決して、決して!
Kites rise highest against the wind – not with it.
- Winston Churchill (ウィンストン・チャーチル) -
凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない。
To build may have to be the slow and laborious task of years. To destroy can be the thoughtless act of a single day.
- Winston Churchill (ウィンストン・チャーチル) -
築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。
ある夏の日の軽井沢。小学三年生の兄がきれいなチョウを採(と)ったと飛び込んできた。真っ赤な翅(はね)に美しい目玉模様。小学一年生の弟はうらやましくて仕方がなかった▼クジャクチョウ。別荘を飛び出し、<兄が捕まえた場所を何度も何度も歩き回った。しかし、ついには出現しなかった>。兄のいる方ならば、その悔しさが分かるか▼クジャクチョウを手にした兄とは元首相の鳩山由紀夫さん。弟とは二十一日亡くなった自民党衆院議員の邦夫さんである。六十七歳▼二十八歳の若さで衆院初当選。総務相や法相などを歴任する一方でその政治人生は収集していたチョウのように所属政党を飛び回るようでもあった。自民党、無所属、改革の会、自由改革連合、新進党、旧民主党、民主党、無所属、自民党、無所属、自民党…▼政界は感情の世界。これだけ、<ナノハニアイタラ>と飛び回れば、不信感と恨みで花畑を追放されかねないものだが、このチョウは不思議と飛び続けた。問題発言もあったが、頭の回転の速さとどこか憎めぬ風貌と人柄のおかげだったかもしれない▼兄は一九九三年、自民党を飛び出したとき、弟にはその計画を一切伝えていない。兄はその後、首相という巨大なチョウを捕まえたが、弟にはそれがどう見えていたか。<兄が捕まえた場所を何度も何度も歩き回った>。夏の日の思い出が切なくもある。
斎藤さんのコラムいいですよ。
近現代における自由[編集]
近代における自由の概念は、他者の意志にではなく、自己自身の意志に従って行為することとして捉えることができる。この自由概念が封建的な身分制からの解放という思想を導き、ヨーロッパにおける市民革命を育んだ。社会契約説では、政府による統治がその正当性を獲得するのは、社会契約に対する被統治者の同意によるとされた上、社会契約を破った政府に対しては、これを覆す権利(革命権)があると説かれている。
自由はまた他者の自由とも衝突する。他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない、という考え方は、J.S.ミル『自由論』の中で表明され、今日他者危害の原則として広く支持されている自由観である。
エーリヒ・フロムは、ナチズム・日本軍国主義が台頭していた1941年に世に問うた著書『自由からの逃走』の中で、孤独と無力感にさいなまれた大衆が、他者との関係、指導者との関係を求めて全体主義を信奉することになると記した[15]。
アイザイア・バーリンは、「二つの自由概念」において、他者から拘束を受けない消極的自由と、自己自身に対して自己実現を課す積極的自由とを区別したが、フロムが消極的自由の対照概念として挙げた積極的自由の概念も、他者との連帯を求めるが故に究極的には全体主義へ繋がるとしている。
義務(ぎむ)とは、従うべきとされることを意味する。
義務の根拠としては、理性、道徳・倫理、宗教、法制度(法令・契約など)、慣習などが挙げられる。義務に反した場合には、制裁があるとされる。制裁には、内面的・物理的・社会的なものがある。
なお、日本語の「義務」という語は西周によるものとされている[1]。