日本以外の国の文化、制度の底辺には、性悪説がある。 欧米では、国家権力に対する性悪説が、三権(司法、行政、立法)分立による相互抑止と、第四権力マスコミによる三権のさらなる監視という制度を生んだといってもよい。
飛鳥・奈良時代から日本は、国家制度や思想のほとんどを海外から輸入してきた。 幕末までは中国、維新後はヨーロッパ、敗戦後はアメリカ。 平安時代に日本オリジナルの仮名文化が生まれながらも、明治まで公文書が漢文で書かれていたように、日本では公的制度はみな外国からの借りモノが基本である。 思想も同様だ。 江戸時代、幕府が公式の学問とした官学は、儒教の一派、朱子学だった。 つまり、日本のインテリ、エリートたちは皆、中欧米の弟子ばかりなのだ。
一方、借りモノの公的制度だけでは、日本の実情にそぐわないから、土着の慣習、風俗から発達した非公式な制度が、裏で実質的な力を持ってきた。 明治時代にヨーロッパの会計法をまねて競争入札を導入し、敗戦後はアメリカの独占禁止法をまねてカルテルを違法行為としたにもかかわらず、つい最近まで談合が公衆の認知を受けていたことなど典型であろう。 また、政治家の派閥も、記者クラブも、欧米には存在しない日本特有のものだ。
日本は例外的に性善説で、国家、社会が成り立ってきた。 だから、性悪説を基本とする借りモノの制度、思想を入れても、実質的に性善説化してしまう。 本来、相互抑止を期待された三権(とくに司法、行政の二権)が、東大法学部を頂点とする高級官僚村となり、さらに第四権力のマスコミまで、官の監視を忘れて官報と化してしまうのも、日本文化の基底に、『国家権力は恐ろしいものだ』という性悪説が存在しないからである。
実際、日本の国家権力は、諸外国と比べると本当に穏当だった。 たとえば、江戸時代、官学の朱子学を批判した山鹿素行は、赤穂に流されただけだが(しかも9年後、赦されて江戸に戻る)、同じころ中国で起きた思想弾圧、文字の獄では、反清朝を唱えた戴名世は凌遅の刑(彫刻刀のような小刀で生きながら肉をそぎ、肉片にしていく世界史上もっとも残虐な刑といわれる)、彼の親子兄弟も死罪、それ以外の親族の多くも奴隷身分に落とされている。
いやーほんとに日本人でよかったです。 だが、これぐらい野蛮な国だから、日本のインテリ、エリートが師と仰ぐ思想家、宗教家が排出する。 日清戦争の講和の席でも、伊藤博文の李鴻章に対するへりくだりがすごくて、イギリス人の記者は、『どちらが戦勝国かわからない』と記している。
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