経済学の時空間無限定が、貨幣錯覚に対して相反する認識(ある、ない)を可能にした。 そして、リフレ派と反リフレ派、それぞれが自身に都合のよい部分をつまみ食い的に解釈し、双方真逆の主張が存在しても矛盾しないという、おかしなことになっている。 それでは、理系並みに厳しく限定すればよいかとなると、そうは問屋がおろさないから難しい。
文系諸学が、理系のように厳しい時空間限定を行わない、そして同時に行えない理由が存在する。 それは、文系諸学の研究対象そのものに原因がある。
文系は、生きたそして意志を持った人間(及び社会)を研究する学問である。 一方、理系の研究対象は基本的に無生物である。 生物学と医学は異なるが、生物学は人間以外、医学は肉体だけを対象とする。 つまり、理系の研究対象には、人間の意志というものが存在しないのである。
科学の原則のひとつは、多種多様な現象を小数(究極には一つ)の原理で説明することである。 百の現象に百通りの説明を持ち出すものを科学とは言わない。 生物から無生物、固体から気体など幾万とある存在物に共通した原子という超微粒子。 すべての生物に共通したDNA。 リンゴの落下から天体の運行まで説明する重力の法則。 物体の状態に関係なく常に一定なエネルギー保存則など近代科学が発見した原理は多様であり、さらにこれらを統一的に説明する究極原理を発見しようと科学者たちは日々研究している。
近代の文系諸学もこのような自然科学をまねたのだが、意志を持った人間(及び社会)という研究対象が、科学になる道を閉ざしている。 だが、そのことに気が付いていない日本の文系エリートがあまりにも多い。
今日はここまでにします。 おやすみなさい。
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