貨幣経済では片方だけモノを売るが、物々交換経済では双方がモノを提供する。 A商人はモノAを、B商人はモノBを交換しようとする時、A商人がモノBを気に入っても、B商人がモノAを気に入らなければ、交換は成立しない。 しかし、A商人が貨幣で支払いできれば、B商人の好みに関係なく、売買が成立する。 このように、物々交換経済においては、両商人の購買動機が一致する『欲望の二重の一致』がなければ、取引は成立しなかった。 しかし、貨幣の出現で、取引効率は劇的に向上した。
取引効率が大幅にアップしたことは確かだが、逆に考えれば、数千年間、貨幣がなくても経済社会は成り立っていた。 物々交換はありえても、貨々交換はありえなかった。 全員が金貸しになれば、全員が餓死するだろう。 だから、経済社会の本質は、製造業が主で、金融業は従でなければならない。
実際、近代民主主義以前、金貸しの社会的地位は、現在とは比較できないほど低かった。 日本の士農工商では一番下の階級だったし、ヨーロッパでも、金融家が貴族の晩さん会に招待されることはまずない。 仮に招待されても、末席か別室に通され、新たな借財か返済延期を要求されるオチがついた。
ところが、民主主義が発展した近代以降、従であるはずの貨幣が権力を持ちはじめる。 人々の欲望を開放するのが民主主義だから、欲望と簡単に交換できる貨幣を誰もが欲する権利を持った。 人々の生活を実質的に豊かにする実業よりも、金貸家がでかい顔をするようになる。 人類の歴史上、金融業が今ほど力を持ったことはない。
1985年から始まった金融ビッグバンは、歴史上初めて貨々交換も完全自由経済にした。 単なる両替ではない。 誰もが自由に貨幣を交換することが可能になり、そして利益あるいは損失が発生する市場に参加した(放り込まれた?)。 しかし、今回のリーマンショックは、金融屋があくなき富を求めった結果である。 ところが、FRBの金融緩和では、原因を作った金融業が真っ先に救われ、実体経済は後回しにされている。 分業のすそ野が狭いからだが、狭いのは業界外部に対してだけではない。
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