なぜ、(経済)学者によって言うことがマチマチなのか?
このように感じるの人は多いと思う。 現在の『リフレ派』対『反リフレ派』の言い分など典型的なものではないか。 リフレ派は、デフレ脱却のためには日銀が万札をどんどん刷るべきだと主張する。 一方、反リフレ派は、そんなことをやっても効果がない、あるいはもう十分に刷っているとか、ハイパーインフレになるなどと主張する。 いつまでたっても堂々巡りの言い争いで、どちらが正しいのかさっぱりわからない(私は今は基本的にリフレ派だが)。
実は、この疑問こそが、理系と文系の最大の違いを解くカギでもある。 そして同時に、経済学を含む文系諸学が、科学のような客観的真実を説明できる学問には絶対、絶対、絶対なれない欠陥でもある(自由経済の理論を科学的真実かのように語っている公正取引委員会幹部がいたので私情が入りました)。
なぜか? 理系の理論は時空間を限定するが、文系は限定しないから。
時空間を限定するということは、時間と空間(さらには対象)をピンポイント(もっとも厳密なのは数字)で指し示すことである。 理系の理論はすべて数学で記述され、さらにメートル、平方メートルなどの空間スケール、分、秒、ミリセカンドなどの時間及び空間を時間で微分したm/s(速度)、m/s²(加速度)などの単位で必ず記述される。
前にも一度説明したが、天気予報に例えると分かりやすい。 普段ニュースでやっている天気予報は、時空間を限定している。 『今日の午前中、東京で雨が降ります』。 しかし、時空間を限定しないと、『いつか、どこかで雨が降ります』となる。 あるいは株式投資に例えてもよいだろう。 時空間(対象)を限定すると、『今日、日経ETFは値上がりする』。 もっと厳密にすれば、『今日、日経ETFは150円値上がりする』などとなる。 限定しないと、『いつか、どれかは値上がりする』。
お分かりいただけただろうか。 『いつか、どこかで雨が降る』、『いつか、どれかは値上がりする』という予想は、確かに間違ってはいない。 しかし、検証不能で役に立たない。 時空間(対象)を限定しないと、正誤の判定ができない。 経済理論を学んでも、株や商売で儲けることができない最大の理由でもある。 そして、文系の学問はすべて、このスタイルをとっている。
これから飲み会があるので、今日はここで終わります。 まだ早いですから、ではまた明日。
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