そして、時空間を限定している時には矛盾する話も、限定がないと矛盾しなくなる。
たとえば、一般の経済学で需要と供給が一致すると言えるのも、時間と空間(対象)を無視しているからだ(分析対象を絞りに絞り込んだ超ミクロ経済学は除く。やはり限定は重要です)。 時空間(対象)を無視すれば、『今日、東京のタクシーの需要と供給は一致している』ということと、『先月ニューヨークのタクシーの供給と今日東京のバスの需要は一致している』ということに差異がなくなってしまう。
文系諸学者それぞれの時空間の認識が違っているのであれば、言うことがマチマチであっても矛盾にはならない。 しかも、誰が正しくて誰が間違っている、との断定もできない。 つまり検証不能である。 そして、検証不能だから改善もできない。 改善のしようもないから進歩もない。 100年も前の経済学者や哲学者、法学者の理論を今持ち出せるのも、改良進歩がない学問だからである。
『理系は時空間限定。文系は時空間無限定』。 学問をやるとき、一番最初に頭に入れなければならない超々重要な原則なのだが、誰も教えてくれない。 高校二年で理系と文系に分けるとき、是非、生徒たちに教えるべきだと思うのだが。
だから、文系諸学も、自然科学のように普遍的真理を探究できると勘違いする文系エリートが出てくる。 この勘違いは特に日本に多いようである。
『法科学』という聞きなれない言葉があるが、普通の人は誰も知らないだろう。 日本法曹界だけの特殊な言葉だそうだ。 上智大学法学部教授だったホセ・ヨンパルト氏は、『法学が、自然科学のような客観的真実を追求すべきだという考えで使っているのは完全な間違いであるだけでなく、社会にとって有害である』と非常に厳しく批判している。 まさに彼の言うとおり、文系エリートの法・経済失策は、国家国民にとって有害なレベルになりつつある。
昨日ブログを読んだ友人から、『超入門と言いながら、ミョーに小難しい話だな』と苦情がきてしまいました。 実は、『超』を付けたのには理由があって、一つは『非常に分かりやすい』という普通の意味、もう一つは『世間一般の入門書には絶対書いていないようなことも書く』という裏の意味があるからです。 悪しからずご了承ください。
今日はここまでにします。 おやすみなさい。
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