リフレ派と反リフレ派の見解の相違は、『貨幣錯覚』に対する認識の違いが大きな原因である。 貨幣錯覚は存在する、と考えている人が一般的にリフレ派。 貨幣錯覚は存在しない、と考えている人は反リフレ派に多い。
貨幣錯覚とは、その名の通り『(名目=額面価格)貨幣に対する錯覚』のことである。 談合ブレスト(その17)で名目と実質の話をしたように、実際の経済では、インフレやデフレによって、貨幣自体の価値が変動してしまう。 たとえば、インフレで給料の額面が20万円から40万円になっても、同時に物価も2倍になれば、実質的には全く変わっていないと考えられる。
このとき、貨幣錯覚はあるというリフレ派、そして、無いという反リフレ派はどう考えるか。
リフレ派の人々は、消費者は額面が2倍になった給料を見て、所得が増えたと貨幣錯覚を起こす⇒消費を増やす、と考える。 一方、反リフレ派の人々は、消費者は合理的だから、名目上給料が2倍になっても、物価も2倍になっていることを認識し、実質的に所得は増えていないことを理解するから貨幣錯覚は起こさない⇒消費を増やすことはない、と考える。 ちなみに、合理的な消費者を想定している現在の主流派経済学では、貨幣錯覚は無い、という立場である。
貨幣錯覚で消費増を前提にすれば、日銀にどんどん万札を刷れというリフレ派の主張は合理的である。 一方、錯覚が起きないという前提に立てば、万札を刷っても意味がないという反リフレ派の主張も合理的である。
貨幣錯覚は、あるのか無いのか。 どちらが正しいのだろうか。 結論からいえば、どちらも正しいし、どちらも間違っている。 現実経済では、貨幣錯覚を起こす人もいれば起こさない人もいるだろうし、発生する地域や時期もあれば発生しない地域や時期もあるだろう。 テレビや新聞がどのように報道するかによっても、消費者行動は全く変わるだろう。 晴雨混在の北海道から沖縄まで同じ予報をしようとするからマチマチな予想が出てくるのだ。 時空間を限定しないから結論が割れ、正誤の判定不能になる。
面白いのは、リフレを主張する者は在野の学者やエコノミスト、民間人に多く、反リフレ派は官僚、官庁派エコノミスト、大手マスコミなどに多いことだ。 この対立の図式は、1930年代の昭和恐慌でも全く同じだった。 石橋湛山をリーダーとする在野の学者たちは円安によるインフレ政策を主張し、大蔵当局と政府、大手新聞社は円高によるデフレ政策を支持していた。
今日はここまでにします。 おやすみなさい。
だったら、円を刷れば円安になるわけです。
また、経済学的な議論になると面倒になるのですが、現象として円安になれば日経平均は上昇する傾向にあります。
非常に単純化した仮説となりますが、
円を刷ると円安になり、株価が上昇する。
株価が上昇すれば投資意欲が増し、経済が活性化する。
こんな簡単にはいかないものでしょうか?