寅の子文庫の、とらのこ日記

本が読みたいけど本が読めない備忘録

馬頭観音を見た。

2005年12月28日 05時45分51秒 | 石塔石仏~埋もれていく風景
一週間続いた裾野市の現場も今日が最後。
午前中、穏やかな陽を浴びて集落の辻、石段の脇に小さな石塔を見つけた。
5段重ねの石段の上はわずかな平地で、古くからこの土地に続いたであろう、
一族の地神や先祖たちの墓石が苔むしていた。



馬や牛も一家の大切な労働作業の一端を担い、今は安らかに家族と共に眠る。

小さな石塔の文字碑刻を読む。

昭和九年九月十日建立
花王馬頭観世音菩薩
杉本久雄建之

日曜日の小さな旅(赤野観音堂を見た。)

2005年07月22日 00時57分13秒 | 石塔石仏~埋もれていく風景
沼津市の発展に必要な提案をして実現しよう、では市の活性の為、ユニークな提案を集めている。
ハイキングコースの整備には微力ながら応援をしたい! と、言う訳で本当はそっとしておきたい文化財があるのですが、ほんのちょっと、紹介してみます(最後までうまくいきますように)。


17日の日曜日、2年振りで柳沢の赤野(あけの)観音堂を見に行ってきました。
柳沢の集落、桃沢神社を左手に見て過ぎ、東名高速の架橋をくぐり、すぐの分岐を左にS字を描くように登ります。途中、両側切り通しのような薄暗い山道を登るとほどなく行き当たります。愛鷹山(あしたかやま)南麓に位置する観音堂で、木造・茅葺・寄棟造り・平屋建てにして内陣は唐様式の鏡天井張り、外陣外回り軒裏には化粧天井を纏い、江戸中期の建築様式をそのままに伝える市指定の重要文化財です。本尊は十一面観世音菩薩立像です。境内には2本の天然記念物、カヤ(写真左)とナギの老木があります。ともに樹齢600~700年を数える雌木の巨木です。カヤ(イチイ科)は目通り3,9m、樹高23m、樹勢は北側へ10,5mと良く伸び、枝も地面すれすれまで垂れ下がっています。ナギ(マキ科)は目通り3,7m、高さ13m、立て札によれば暖地に自生する常緑樹で伊勢湾台風の時、主幹が折れたがかえって樹姿は良くなり樹勢は旺盛、県内でも珍しい大木とのことです。


観音堂を挟んで正面左側にカヤ、右側にナギ(写真)が、ちょうど左右対称に鎮座しています。あたり一面は『愛鷹茶』のお茶畑が広がっていますが、山道で不便な為、日中でも畑に通うお百姓さん以外には滅多に路往く人とすれ違うことはありません。



今回、赤野観音堂まで出掛けたのはこの2本の老木に会いたかったからです。観音堂の北側をかすめるようにして今、第2東名の工事が着々と進んでいます。付近の環境が変化することにより、何百年も生き長らえてきた2本の木の健康がとても心配です。素人目にはまだまだ要らぬ心配という感じに見て取れましたが、同じ愛鷹山南麓、沼津市宮本にあったクロマツの老齢独立樹『ヌタバの松』は東海大学が建って敷地に取り込まれてからも良く管理されていましたが、ついには枯れてしまいました。行く先を思うと心が痛みます。


観音堂を元来た道に下ります。途中、頭の黒い大きなヤマカガシが車の前をシュルシュルと横切リました。根方(ねがた)街道を渡ったあたりで車を休めました。この付近は水田の稲穂の緑が風に揺れて心地良いです。あちらこちらに井戸が掘り抜かれて清水が湧いています。顔を洗ってひと休み、とらのこも小さな手のひらに冷たい水をいっぱいすくいました。近くのセブンイレブンで仕入れてきたアイスクリームで束の間の涼を取りました。

家を出発してから1時間足らずの小さな旅となりました。果たして『沼津市の発展に必要な』ハイキングコースとして提案にに沿えるかどうか・・・。(私が胸に持っている天秤量りでは新しい高速道路よりも観音堂と境内の老木のほうが重たいのです)

道祖神、庚申塚寸景。

2005年05月20日 02時28分56秒 | 石塔石仏~埋もれていく風景
現場へ向う途中で見た光景。
道祖神の類は富士川以東、静岡東部/駿東地域・富士山麓・伊豆半島において
全国平均より分布密度が高い。ことに富士宮周辺は双体道祖神の宝庫。

後の禿山は海抜25メートル、25000分の1の地形図【韮山/静岡2号-2】で確認しても
等高線はわずかに2本しか認められない。
禿山は一連の、沼津アルプス、と呼んで親しい山塊の突端に位置している。
奥に進むに連れて山は深まり、志下坂峠と言う、かっては駿河湾に接した、
(旧駿東郡静浦村)から海産物を運び、
こちら山側からは村の子どもたちが海水浴に通った峠道へと続いている。
その道も五月の成長著しい夏草に今日、呑み込まれようとしている。

今でこそ、のどかで良い風景と、一言で片付けられてしまうが、
もしもこんな景色にバッタリ出食わしてしまったら、
先ず車を降りてみる。石の温もりに触れてみる。
そして建立年月の碑刻を指で辿り思いを馳せてみる。
道祖神を彫り、庚申塔を建て、馬頭観音を祀り、田の神に祈った遠い時代を考えてみる。
石への信仰心は無くとも、今日生きていることへの感謝の思いに心で手を合わせてみる。

普段からそんな作業をしている。
道祖神の本UPしました。

水疱瘡から疱瘡地蔵へ→徳政碑文のこと。

2005年03月06日 21時29分00秒 | 石塔石仏~埋もれていく風景
【日本の歴史10 下克上の時代/CHUKO BACKS中央公論社/1971年初版】に
疱瘡地蔵=徳政碑文の記事が出ている。要約すると、
時は室町、正長元年(1428)の京都奈良を中心とする大規模土一揆で、
徳政令が発布され近郊の農民は課役免除等を勝ち取った。

その喜びを名も無き郷の民が、通称疱瘡地蔵と呼ばれていた花崗岩の巨石の右脇に
わずかに4行、27文字で小さく刻み、後世に遺した。
今でこそ、この 『徳政碑文』 は歴史の教科書で広く知られているが、
明治・大正時代にはまだ埋れた史実だった。

奈良、柳生の郷土史家、杉田定一氏がひとり、この定ならぬ碑文にとりつかれ
十余年の苦心の末、大正末期に解読、永い歳月を経て、日の目を見る。

『正長元年ヨリ サキ者カンヘ四カン カウニヲヰメアル ヘカラス』
(正長元年より先者は、神戸四ケ郷に負いめあるべからず)
=正長元年以前の借金課役は全て棒引きとなった!

官に対する農民勝利の事実を農民自らが記した記録だけに価値がある。
文中この徳政碑文を解読された杉田定一氏の苦労話が面白い。

『疱瘡』なんて漢字はパソコンあればこそで、普段馴染みがない。
書いてみろ!なんて言われて虫眼鏡で辞書を凝らしても、ちょっと難儀。

こどもの水疱瘡から、思わぬ勉強が出来た。