八丈島から本のご注文がありました。
八丈町 のNさん、ご入金ありがとうございました。
領収証を添えて【沖縄海中生物図鑑第9巻/10巻】、冊子小包郵便で送りました。
八丈島は竹芝桟橋から東海汽船の、さるびあ丸 で行く伊豆七島南端のリゾートですが、かって江戸時代には鳥も通わぬ、と怖れられた絶海の孤島にして罪人たちの流刑の島。慶長11年(1606)から明治4年に至るまで延べ1865人が配流され、赦免された者(死後赦免含む)489人、抜船(ぬけふね/脱島)を企てた者が12人あったと伝えられています。当初八丈流人は士分以上の政治犯・思想犯が多く島民に【国人(クンヌ】と呼ばれて尊敬されていました。流人の妻帯はご法度でしたが妻帯することで心和らげるならばと【機織女】【水汲み女】と称し黙認されていました。数ある流人の中でも周知の二人について、小石房子さんの【流人100話/立風書房/ISBN4-651-75017-6】から書き留めておきます。
【宇喜多秀家/1573-1655】
八丈島流人第一号。豊家五大老の一人、備前・美作57万石の太守で関が原の戦いに破れて以後、死一等を減ぜられて慶長11年(1606)八丈配流。島で一族は、『浮田流人』と呼ばれ他の流人とは区別をされ機織女を娶って子孫は繁栄し、赦免された明治2年(1869)には二十家にもなっていました。この浮田流人の存続には加賀前田家の美談が伝えられています。前田家は秀家の妻、お豪の実家という縁で秀家遠島以後、隔年ごとに白米70俵、金子35両、その他衣類雑貨から薬品に至るまでを見届物として延々250年間にわたって送り続けたそうです。三代家光の頃、前田利常の使いが来て、徳川さまのご配下になるつもりがあれば小国のひとつでも賜るように願ってみますが、との申し伝えに、厚意を謝しながらも固辞して使者を返したそうです。島にあって幕府の崩壊を待ち望んだ秀家は在島50年、待てど暮らせど徳川家は揺るがず、明暦元年(1655)配所でついに83歳でその生涯を終えた時、将軍は4代家綱まで替わっていたのです。秀家には辞世が残っています~
*み菩提の 種や植えけん この寺へ みどりの松の あらん限りは
【近藤富蔵/1805-1887】
千島・択捉等蝦夷地の探検で有名な近藤重蔵の子で、文政9年(1826)隣地との地所争いの末、百姓家斬殺(狼藉者打ち捨ての罪)により八丈遠島(重蔵は滋賀配流)となりました。富蔵は在島60年の生活で、八丈実記 と言う大著を残しています。そこには島の歴史から地理、風俗習慣、自然、伝記、詩歌など八丈島の全てをつぶさに書きとめてあり、膨大な資料は実に69冊にも及んでいます。明治20年、その中の29冊を東京都が買い上げ、近年7冊に編纂、出版されました。
富蔵は63才のとき八丈詩会を主宰して、八丈八景 を選び、68才(明治5)で三根村川平夕学校の開校に尽力し督学となりました。明治13年の赦免で父重蔵の墓に詣で、2年後再び八丈に戻りました。もはや富蔵の住むべき場所は八丈島をおいて他にはなかったのです。帰島後、三根村の大悲閣尾端観音堂の堂守となり5年後の明治20年(1887)83才で天寿を全うしました。今、三根村共同墓地には島の有志による自然石の墓石が建ち、その傍らには島で娶った水汲み女、【逸】の墓が寄り添うように建っています。小石さんは流人であっても、富蔵以上に八丈島を愛した人がいただろうか、富蔵は流人の随一であると同時に島民の随一であると結んでいます。
八丈町 のNさん、ご入金ありがとうございました。
領収証を添えて【沖縄海中生物図鑑第9巻/10巻】、冊子小包郵便で送りました。
八丈島は竹芝桟橋から東海汽船の、さるびあ丸 で行く伊豆七島南端のリゾートですが、かって江戸時代には鳥も通わぬ、と怖れられた絶海の孤島にして罪人たちの流刑の島。慶長11年(1606)から明治4年に至るまで延べ1865人が配流され、赦免された者(死後赦免含む)489人、抜船(ぬけふね/脱島)を企てた者が12人あったと伝えられています。当初八丈流人は士分以上の政治犯・思想犯が多く島民に【国人(クンヌ】と呼ばれて尊敬されていました。流人の妻帯はご法度でしたが妻帯することで心和らげるならばと【機織女】【水汲み女】と称し黙認されていました。数ある流人の中でも周知の二人について、小石房子さんの【流人100話/立風書房/ISBN4-651-75017-6】から書き留めておきます。
【宇喜多秀家/1573-1655】
八丈島流人第一号。豊家五大老の一人、備前・美作57万石の太守で関が原の戦いに破れて以後、死一等を減ぜられて慶長11年(1606)八丈配流。島で一族は、『浮田流人』と呼ばれ他の流人とは区別をされ機織女を娶って子孫は繁栄し、赦免された明治2年(1869)には二十家にもなっていました。この浮田流人の存続には加賀前田家の美談が伝えられています。前田家は秀家の妻、お豪の実家という縁で秀家遠島以後、隔年ごとに白米70俵、金子35両、その他衣類雑貨から薬品に至るまでを見届物として延々250年間にわたって送り続けたそうです。三代家光の頃、前田利常の使いが来て、徳川さまのご配下になるつもりがあれば小国のひとつでも賜るように願ってみますが、との申し伝えに、厚意を謝しながらも固辞して使者を返したそうです。島にあって幕府の崩壊を待ち望んだ秀家は在島50年、待てど暮らせど徳川家は揺るがず、明暦元年(1655)配所でついに83歳でその生涯を終えた時、将軍は4代家綱まで替わっていたのです。秀家には辞世が残っています~
*み菩提の 種や植えけん この寺へ みどりの松の あらん限りは
【近藤富蔵/1805-1887】
千島・択捉等蝦夷地の探検で有名な近藤重蔵の子で、文政9年(1826)隣地との地所争いの末、百姓家斬殺(狼藉者打ち捨ての罪)により八丈遠島(重蔵は滋賀配流)となりました。富蔵は在島60年の生活で、八丈実記 と言う大著を残しています。そこには島の歴史から地理、風俗習慣、自然、伝記、詩歌など八丈島の全てをつぶさに書きとめてあり、膨大な資料は実に69冊にも及んでいます。明治20年、その中の29冊を東京都が買い上げ、近年7冊に編纂、出版されました。
富蔵は63才のとき八丈詩会を主宰して、八丈八景 を選び、68才(明治5)で三根村川平夕学校の開校に尽力し督学となりました。明治13年の赦免で父重蔵の墓に詣で、2年後再び八丈に戻りました。もはや富蔵の住むべき場所は八丈島をおいて他にはなかったのです。帰島後、三根村の大悲閣尾端観音堂の堂守となり5年後の明治20年(1887)83才で天寿を全うしました。今、三根村共同墓地には島の有志による自然石の墓石が建ち、その傍らには島で娶った水汲み女、【逸】の墓が寄り添うように建っています。小石さんは流人であっても、富蔵以上に八丈島を愛した人がいただろうか、富蔵は流人の随一であると同時に島民の随一であると結んでいます。