寅の子文庫の、とらのこ日記

本が読みたいけど本が読めない備忘録

古書買い取りして思う(4)~宝塚歌劇を巡る思い。

2006年09月29日 00時08分23秒 | 買い取りと配達の現場から
宝塚歌劇の本棚は売れなくてもいいと以前この日記に書いた。
卒業されていった生徒さんたちへの応援歌とも書いた。勿論、今でもその思いに変わりはない。しかし、もうひとつ別の理由があった。検索エンジンでも分からない、あるひとりの生徒さんの消息を知りたくて自ら灯台の灯となった~自ら情報の発信源となることで、逆に探している情報は集まりやすいという方程式に倣った。そんな理由がこの本棚の奥には隠されている。だから卒業された生徒さんたちのお名前(芸名)を『歌劇』から拾い集める労力も厭わなかった。結果としてそれらのお名前を伝い、この本棚へ辿りつくアクセス数は以外に多い。

寅の子文庫では今年6月にアクセス解析・忍者ツールズ無料版を導入した。サイト内でこれまでずうっと、ページ毎アクセス数のトップを独走していた岩波写真文庫の本棚、が最近この宝塚歌劇の本棚、に抜かれている。アクセス解析から見てとれば、図らずしも多くの方にこの本棚は灯台としての役割を果たしていると思う。

今日もそんなサーチライトの灯を遠くから見つけて?ダンボール箱一杯の歌劇やグラフ、プログラムが届いた・・・この売れなくてもいい本棚では、1冊200円で売る『歌劇』を40円で買い取る。1年分12冊揃えば50円に上げる。200円で売っても代引き配達を希望されれば、口座振替料に100円取られて、あとに100円しか残らない。こんなことをしていて何になろうと天を仰ぐときもある。しかしこんな儲からない本棚があるからこそ名前も憶えられ?励ましのつもり?で買い取りのダンボールが届くのだろうと気持ちを前へ向ける、。もとより儲からないと承知で始めた本棚が元気に働いてくれることが何よりうれしい。


・・・サーチライトは今夜も或る生徒さんの行方を探してネットの闇を貫いている・・・


神宮前のUさん、思い出の本たち、お譲りくださりありがとうございました。

さらば夜型生活~新聞配達を始めて。

2006年09月22日 06時47分29秒 | 生活手帳

新聞配達を始めて2週間経った。地区の配達員さんが身体を悪くされたので新旧交代。月曜から金曜まで毎朝4時半から1時間かけて50件ほど配る。普段から慢性的睡眠不足だったので大丈夫かと家族の心配もあったが、夜10時就寝・朝4時起床と生活のリズムを改めてみた。さすがに最初の1週間はきつくて昼間あくびを連発したが、今週はもう身体が慣れてきている。

早起きは三文の得と言うが三文ぐらいなら寝ていたほうがまし・・・これが配る前の偽らざる心境。朝、近所のイヌよりも早く起きて自転車で新聞を配る~誰だってそんなことは御免蒙りたいと思う。でも配り始めてその思いは劇的に変わった。ペダルを1時間こげば身体も軽くなって健康に良いし、途中日の出も拝める。道往く人にはお早うございますと声をかけ、なんて気持ちがいいんだろう。家に戻って時計を見ればまだ5時半。メールを開くと夕べの網に魚が入っていて?(いえ、ご注文が入っていて、)7時半までは自分の時間をおもいきり使える。~やらされていると不平を言えば何をやっても苦しいが、自分で決めてやらして貰おうと思えば感謝に変わる。昔の人は三文の得と言ったがどうしてどうして三文どころではない。早起きの新聞配達、もう止められない。


ウチのコテツも小学校に通うようになったら、一緒に連れて行きたい、と真面目に思う・・・

あふれ出たものは納まったのか~書庫の完成

2006年09月19日 06時20分23秒 | 器からあふれ出て

ソースネクストのズバリマイホームを使って完成した書庫を書いてみた。






電気工事は室内灯(蛍光灯)とコンセントの取り付け。電気の供給は母屋から引いてブレーカー(20アンペア)も設置した。これで夜も灯りがついてついに書庫が完成した。基礎を上げたので出入りの高さが気になり、ドア前に踏み台の代わりでU字溝をひっくり返して置こうと思っていたら、基礎工事の親方が仕事帰りに余ったコンクリートブロックを持ってきて敷いてくれた~有難い。また知らぬ間に町の建築指導課の完了検査も済んでいた~こんな小さな書庫でも床面積が6畳を越えると確認申請が要る。来年からは固定資産税がかかるという・・・

昨日(9/17)は朝から本棚(90cmX180cm)を5本組み立てて夜までかかった。玄関や居間に横積みしていた本たちを移動、あとは2階にあふれたままの本を整理しながらの入力作業で、こちらはまだ時間がかかりそう。


ドタバタしたこのひと月、途中スカンジナビア号の沈没騒ぎで思いがぶっ飛んだ日(9/2)もあったが、一連の思いはこうして実を結び、忘れられぬ節目の夏となった。あふれ出ていた本は収納に見通しがついた。でも、あふれ出た思いは書庫へも納まりきらない・・・



Google Earthで、スカンジナビア号空撮

2006年09月18日 07時40分51秒 | スカンジナビア号


子育てのツボがよく利いて楽しい育児な手帖さんにグーグルアースを教えてもらう。

いたいた、スカンジナビア号発見。
この画像もいつの日か更新されてしまうだろう・・・

*グーグルアースによるスカンジナビア号の位置
北緯35度1分16,74秒
東経138度52分46,47秒
高度785m

お絵かきツールで航空写真に解説を付けてみた。
[1]出航当日、この堤防からスカンジナビア号をビデオに撮った。[2]は長井崎中学校裏手の農道で標高約50m~ここからの眺めがのんびりとして良かった。[3]はゆでて美味しいイイッコを取る磯。[4]バス停=スカンジナビア前、船がいなくなっても名前を残してほしい。[5]トンネルが出来て長井崎をわずか15秒で素通りできるようになってからスカンジナビア号へわざわざ道を戻る他県ナンバーは少なくなった。[6]木負(きしょう)の無料休憩所でトイレをいつも借りた。[7]最後にスカンジナビア号を家族で撮った(8/21)場所。道は海岸線にしがみつくように大瀬崎(約30分)へ続いている。


(画像は8/31、出航2時間前、長井崎中学校裏手から見る)

影山正雄(光洋)の写真

2006年09月14日 07時28分57秒 | 岩波写真文庫
岩波写真文庫101番【戦争と日本人】影山正雄さんの写真に拠るところが大きい。
棚に数冊並べてあった保存状態の其々違うこのナンバーも、復刻ワイド版の1冊を除き全て売れてしまった。残りの1冊はもはや売り物でない。

今日、偶然にも入手したある一冊の本【太平洋戦争/日本歴史シリーズ21/世界文化社/昭和44年】に影山さんが撮影した写真が出ていた~影山さんは昭和5年東京高等工藝学校写真部を卒業、朝日新聞東京本社に入社、写真部に配属となった。職務として戦争を伝える報道写真と戦時下に生きる庶民の暮らしを撮り、終戦とともに辞表を出して新聞社を去った~その後の消息については定かでない。本書巻末には図版目録として収録されている全ての写真にその撮影者氏名とタイトル(題)が記してあり、影山さんの写真を拾うと52枚に及んだ。岩波写真文庫101番【戦争と日本人】とも併せ見て、影山さんの従軍カメラマンとしての足取りを追いかけてみた。(カッコ内の年数は昭和、1行コメントは本文及び他より写真と照合した)

・朝陽に向かう自動車部隊(満州事変/日本陸軍)
・古北口に入城したどくろ部隊(満州事変/日本陸軍)
・満州国皇帝溥儀来朝(昭和10年)
・東北凶作救済会議/凶作にあえぐ東北の極貧農家(10年)
・永田鉄山暗殺現場(10年)
・戒厳令下の雪の東京(10年/2・26事件)
・第2次上海事変勃発(12年8月)
・四川路の犠牲者たち(同上)
・徐州作戦(13年5月)
・南京入城(12年12月)
・避難する南京市民(同上)
・七・七禁令(15年/贅沢は敵だ)
・ブキテマ高地の攻防(16年12月~17年1月、開戦初期)
・ツラギ沖夜戦で炎上する敵甲巡(17年8月*ウィキペディア掲載の写真)
・新宿繁華街の焼け跡(20年頃?)
・原子爆弾投下(20年8月9日/キノコ雲)
・マレー沖海戦(16年12月10日/炎上する英戦艦POWとレパルス/航空写真)
・牟田口廉也中将(年不詳/作戦の合間)
・予科練生(年不詳/土浦海軍航空隊の予備学生)
・特攻隊夜間出撃(年・撮影場所不詳)
・天津を死守する日本海軍陸戦隊(年不詳)
・天長節観兵式(9年/馬上の昭和天皇・代々木錬兵場にて)
・チチハルの多門師団長(年不詳)
・日満議定書調印(7年9月)
・満州国皇帝溥儀来日(10年4月)
・虐殺におびえる南京市民(12~13年頃)
・英霊の帰還~(岩波写真文庫101・戦争と日本人の表紙)
・上海天長節祝賀会(7年)
・斉藤実海軍大将一家(年不詳/挙国一致内閣の誕生)
・靖国神社春季大祭(14年4月)
・出征兵士(年・場所不詳)
・軍国モードの七・五・三(年・場所不詳)
・家庭の主婦は大日本国防婦人会を結成(年・場所不詳)
・女学生の体操・学生の軍事教練(年・場所不詳)
・靖国神社で清掃奉仕(年不詳/靖国神社)
・銃を持って訓練を受ける主婦(年・場所不詳)
・隣組工場(年・場所不詳)
・米の隣組配給(年・場所不詳)
・コークス拾い・木炭バス・本場コーヒーの飲みおさめ(年・場所不詳)
・家庭菜園・国民服の結婚式(年・場所不詳)
・衣料切符で買い物(年・場所不詳)
・なんでも行列(年・場所不詳)
・建物の強制疎開(年・場所不詳)
・灯火管制~(岩波写真文庫・戦争と日本人に一連の写真あり)
・空襲を受けた家屋(17年4月18日/帝都初空襲)
・焼け出された人々・有楽町の惨禍(戦争末期)
・浅草仲見世通りの被害(戦争末期)
・集団疎開した学童(戦争末期)
・防空壕で空襲警報解除を待つ(戦争末期)
・集団疎開した学童(戦争末期)
・バラック住い・銀座のヤミ市(終戦時)
・米軍の帝都進駐(終戦時)

影山さんは15年戦争を通じて中国大陸、仏領インドシナ、また遠くソロモン海域まで従軍カメラマンとして同行、歴史の断面をフィルムに残した。昭和12年の南京入城、17年1月のマレー沖で当時世界最新鋭を誇った英戦艦プリンスオブウェールズを沈めたとき、またシンガポール陥落で山下中将が敵将パーシバルにイエスかノーかを迫ったとき、終戦間際の長崎市上空に炸裂した原子爆弾の巨大なきのこ雲など・・・そのいずれの場面にも歴史の証人としてファインダーを覗いていた。戦争末期には内地にあって銃後の暮らしの変貌をもカメラに捉えた。戦後、昭和28年(1953)8月15日、岩波写真文庫【戦争と日本人~あるカメラマンの記録】がシリーズ101番目に刊行されたとき、私たちは初めてこの一報道写真家の名前を知った。影山さんは忠実な報道カメラマンであると同時に戦禍を生き抜く一市民としても苦渋の体験をされている。その内容は写真文庫に詳しいが、26年4月、三男の賀彦さんを亡くしたとき(~死亡診断書は心臓衰弱症とある)食べるものもなく当時の日本人の生活が殆どそうであったように、『所詮賀彦には敗戦の風は厳しすぎた』と言う。戦争は庶民の夢や希望、家庭の団欒までも容赦なく粉砕した。影山さんの写真を見る度にあの時代はいったい何だったのだろうと考える。15年という暗く長いトンネルの中を彷徨い歩いた日本人の陰影が胸に突き刺さる。今、私たちは平和な社会の中に居る。平和な心で影山さんの写真を見つめたい。


夕べ読んだ本
【太平洋戦争/日本歴史シリーズ21/世界文化社刊/昭和44年】

器からあふれ出て~書庫の組み立て終了。

2006年09月11日 00時18分03秒 | 器からあふれ出て

今日(9/10)、書庫の組み立てが終わった。
留意点は3方向に窓を入れて風通しを良くしたこと、本は重たいので床がたわまないよう重量対策として床下の根太を増強し間隔を通常の30cmから15cmに狭めた。あとは室内灯とコンセントの電気工事でいよいよ完成秒読み。



一晩、車に寝かせた昨日の買い取り分を即移動。
玄関やバアバの部屋にあふれていた本も引越し。




補助輪が外れた未来のライバルはお父さんの手伝いをしたいとか言ってるうちに、空き箱でもう秘密基地を作っている・・・

器からあふれ出て~書庫を建てる

2006年09月07日 06時35分59秒 | 器からあふれ出て
気がつけば書庫の基礎が出来上がっていた。

工事の詳細を勉強の意味も含めて書き記すつもりだったが、スカンジナビア号の沈没騒ぎでそれどころではなかった~もう機を逃した感もあるので適当な写真を載せてお茶を濁そうと思う。


書庫の寸法は2.73mX4.55m(1間半X2間半)で床面積は12.42㎡(坪換算で3.75坪=タタミ7畳半)。
余談になるが、面積(㎡)を坪換算するには0.3025(121÷400)を掛ければ良い。逆に坪を㎡換算するには一般的には3,3を掛けるが、より精度を求める場合には400÷121の値を掛けてやる。
8月26日、重機が入り砕石を3立米(2トンダンプで2杯)敷いた~地盤高を約30cm上げながら水平を決める。




鬼の居ぬ間に・・・最高のおもちゃ?



8月29日、異形鉄筋をメッシュに組んだ~長く大事に使いたいので費用はかさむが基礎はベタ基礎を選んだ。


8月30日朝8時半~ミキサー車でコンクリートを流し込む。



8月31日、ベタコンの上に基礎の型枠を組む~明朝またミキサー車が来る。



9月1日、現在の事務所(母屋2階)から見る~基礎の型枠にミキサー車からコンクリートを流し込む。枠の中で生コンが隅々まで均等に行き渡るようバイブレーターで振動を与えてやる。



9月2日午前10時~さあ、お茶が入りましたよ。

この日の朝、スカンジナビア号沈没のニュースが飛び込んでくる。
寅の子文庫の庭でもこの船の思い出話に花が咲いた・・・
親方はその昔、スカンジナビア号で催した新年会の席で、テーブルが傾いていたせいか(船の傾斜で?)、すぐに酔いが回ってしまったとのこと~これ船酔いにあらず・・・



9月2日午後、この夏最後の蝉がコンクリートに沁みる



9月4日、型枠をはずす。ベタの上に90cm(3尺)間隔で束石を8箇所立てる~基礎(布)の高さは30cm、4箇所に通気孔を空ける。



そして、今朝9月7日の1枚~昨夜の雨でプール状態。
雨水が溜まったおかげでベタの水平が機械も使わないでチェックできた。東北側の隅が1cm深いようだ。予定通り一週間で基礎工事が終了した。あとは組み立て工事と電気工事が二日ずつで、いよいよ書庫が建つ。

沈没を受け止めて~スカンジナビア号

2006年09月05日 00時11分11秒 | スカンジナビア号
出航の涙も乾かぬうちに沈没のニュースで瞼は赤く腫れる。
みんなの夢と祈りを載せた船出はわずか一日半で波間に消えた。
泣いた人の全ての胸にこの船は生きている。
長い間ほんとうにご苦労さまでした。
スカンジナビア号ありがとう。
                                              













ポツリ、またポツリと書いてきたスカンジナビア号のカテゴリーも今日で筆を置きます。もし次にまた書くときがあれば思い出の拾遺ということになります。

スカンジナビア号沈没~2006年9月2日

2006年09月03日 01時05分15秒 | スカンジナビア号
スカンジナビア号の沈没にはまだコトバもない。
普段見ることがないテレビを夢中で見てまわった。
恐らく港で沈没されては困るので、関係者を退去させた後
支障が無いようあえて沖に出て沈ませたのではないか。

Googleアラートに設定したスカンジナビア号沈没の最新情報が次々と入ってくる。
静岡新聞ニュースは会員専用でログインが必要なのでここでは省いた。
以下に沈没に関する主な記事を拾ってみた~

中日新聞記事/ スカンジナビア号が沈没~和歌山でえい航中に
読売新聞記事/ 「客船」スカンジナビア号沈没、潮岬沖えい航中に
日本経済新聞記事/ 元豪華客船スカンジナビア、えい航中に沈没
朝日新聞記事/ 元豪華客船「スカンジナビア号」沈没 和歌山・潮岬沖で
神戸新聞記事/ 元豪華客船えい航中に沈没
日本経済新聞記事/ スカンジナビア号が沈没・改修予定の元豪華客船