継続はチカラと云うが、この夏の暑さは尋常ではなかった。まったく以て胆力が出ない。一夏、とうとう何も書かず過ぎてしまった。しかしただ漫然としていた訳でもなく、五拾の手習いで若い人の間に交じり新しいことにもトライをした(何れ書く時があるかもしれない)・・・放置ぎみの日記もまた再開してみる。日常の生活的メモでよい・・・肩肘張らずにー。
●丸スペシャルNo12戦艦伊勢1977年5月号 ●毎日グラフ臨時増刊/続日本の戦歴/S40年11月25日号
古本寅の子文庫の15年戦争の本棚にその昔、蒐集した「丸スペシャル」を放出したところポツリポツリと注文がある。先日には一番贔屓の「No12『戦艦伊勢』1977年5月号」が売れたばかり。『伊勢』は昭和20年7月末の呉大空襲の折、燃料切れの帝国海軍残存艦艇の一艦として呉港外、倉橋島の音戸町坪井の海岸沖約50mの浅瀬に係留中、米軍機の攻撃を受けた。7月24日、朝からの空襲で直撃弾5発、うち一弾は右舷艦橋で炸裂、牟田口艦長以下、20数名の命を一瞬で奪った。更に28日の空襲で11発の直撃弾、至近弾多数を浴び、両日で190名の戦死者を出し、遂には4万トンの巨体も大破着底して不遇な「航空戦艦『伊勢』」はその生涯を終えた。米軍機が去り、「打ち方止め」の号令が発せられた時『伊勢』の36センチ二番主砲塔右砲には装填弾がそのまま残り、抜弾は困難な為、右舷90度仰角30度で発砲したが、主砲塔が正位置まで旋回し終えたところで動力源である水圧がゼロとなり砲身は高く天を睨んだまま停止した。この『伊勢』が発砲した最後の主砲弾(三式弾)こそ、連合艦隊最後の戦艦の主砲発砲であり、それは同時に戦争に敗れた帝国海軍への弔砲となった。『伊勢』の解体作業は上部構造が(株)播磨造船所呉船橋渠(現石川島播磨重工業)でS21年10月9日~22年7月4日、下部構造は飯野サルベージが昭和25年夏から27年7月30日迄かけて解体した。
話はガラリ変わって、最近、こどもたちが見ているテレビから耳によく付く歌がある。『チカラにかえて』という歌で、エステーの消臭力のCMソングとしてほぼ毎日ように聴いている。見れば贔屓の島谷ひとみが西川貴教とミゲル君のお母さんのようないでたちで、雰囲気が良く出ている。また、偶然にも見たBSが、島谷ひとみの生い立ちを旅する番組で彼女の出身地は呉の音戸町と知って驚いた。
●昨日届いたばかりの『チカラにかえて』1000円/UNIVERSAL MUSIC LLC
島谷ひとみが、音戸町の出身でなければ果たしてこのCDは買ったか否か。
大袈裟なようだが、人生50年生きてきて「音戸町」に三回出会った。それは、不遇な航空戦艦『伊勢』終焉の場所であり、島谷ひとみの生まれ故郷であり、更には遠い記憶の中、小学生の時分に姉の買った小学生社会科副教材「わたしたちの地理/日本編No5中国編」に出ていた巻頭見開き頁「音戸大橋」のカラー写真だった。この何とも斬新な幾何学的模様の道路が面白くて(音戸瀬戸の渦巻きを模したのか?)想像を膨らませ、ワクワクしながら帳面に自分なりの道路を書いて遊んだ記憶がある。
●わたしたちの地理No5中国編/S38年12月25日/定価200円
音戸大橋は1961年12月4日開通、倉橋島は本土と陸続きとなった。1974年無料開放(当時普通自動車120円、歩行者5円)/Wikipediaより。 音戸町はかって、広島県安芸郡音戸町であったが平成5年3月20日に呉市に編入されている。
●Google Earthで現在の音戸大橋を見ると、海を挟んで画像上側の、螺旋状道路のあるほうが倉橋島であることが分かった・・・「わたしたちの地理」の写真には位置関係の説明がなかったので、倉橋島が下側だと思い込んでいた。
●鳥瞰図にして戦艦『伊勢』が係留されていた位置を入れてみた。
例のごとくで、どうでもよい事をズラズラと書いてみたが、50年かかって『音戸町』が自身の中で純粋培養されて今、確かに意識の上に留まった。こういう他愛ないようなことの積み重ねでも、人生はささやかではあるが静かに満たされていく。秋の夜長に精々読書を楽しみたいところだが、どっこいボランティアの新聞配達で4時起床とはなんともやるせない。
寅の子文庫の『15年戦争の本棚』
| チカラにかえて |
T.M.H.R.(西川貴教、ミゲル、島谷ひとみ),ミゲル,鹿毛康司,西嶋真紀,福井洋介,小笠原肇 |
ユニバーサル ミュージック クラシック |