丁度今、桜が満開ですね。今日から散り始めた感がありますが、これならきっと明日、明後日まで楽しめるでしょう、今年は散るのがゆっくりでよかったですね。都電荒川線沿いに住む人にとって、お花見スポットは千鳥が淵ではなくここ、飛鳥山となる。
26日おでん屋の休日は、予定を変更して8分咲きの飛鳥山になりました。
個人的には、桜は開いていくときより、樹に残っている花は少なくとも、散り舞うあの風情こそが美しいと思うので、もし月曜までもてばその散り際を見に、こんどまたひそやかな場所でゆっくりと楽しみたいと思うものです。
花見弁当は諸事情ありて「カレー」でした。
4段重ねのお重にサブジやタンドリーチキン、パニールの炒め物にチャパティって、、、まぁいいか。季節感を超無視したお弁当ではありましたが、そこそこに楽しめてよかったです。実は私自身は飛鳥山に何度かきているのですが、店長はまだ来たことがなかったそうで。つきあう前の昨年春、会社に店長が間接的に「花見がしたい」メールを送ってくれたことを思い出します。豊杯「華吹雪」で一杯、、、といきたいところでしたがいくらなんでもインドカレーでそんなお酒に失礼なことはできないと思いビールでほろ酔い。
ここでお客さんに会ったりするんだよなと噂をすれば影がさす、早速お会いしてしまい赤面。
豊島区巣鴨発祥の染井吉野は、伊豆諸島の大島桜とエドヒガンのあいのこ、江戸末期のうまれ。大島桜の花の多さ、葉の香り、エドヒガンのピンク、葉より先に花が出る性質などをうけつぎ、短命(樹齢50年ほどで寿命といわれる)ながら仰々しいまでの花を咲かせる。
たわわに、あでやかな桜花に、酔う。東京は風流を求める人たちの手によって数百年にわたり桜が愛され、植え継がれてきた都会だと、こんなところでもつくづく感じます。私の故郷広島の花崗岩地帯にはそんな風流もないし、ソメイヨシノが生きぬけるような地質ではなかった。
古の平安人が詠んだ桜はソメイヨシノの華やかさではなく、細かく言えばどこまで分類されるのかわからない総称「ヤマザクラ」の、山に混じって葉とともにひらく慎ましやかな華やぎだった。山にマンサク、コブシ、タムシバがひらき、やや遅れてヤマザクラガ混じるあの風情は、山や自然と共に生きていればこそ全身で悦びを感じる風景だったでしょう。
西行が願わくは/花の下にて春死なむ。。。と詠んだ頃の花は山桜のことだったのでしょうね。深草の/野辺の桜し/心あらば。。。もきっと山桜のみごとなものだったのでしょう。夕霧によって紫の上にたとえられた樺桜は、やや朱色がかった桜の品種ときいていますが、ソメイヨシノ系で量れるものではなく、どんな桜だったのでしょうか。
先週伊豆大島に仕事で行って、大島桜の満開~散るところを堪能して、この優秀なバラ科の植物の文化に与えた影響を感じて春に身を漂わせてみました。
26日おでん屋の休日は、予定を変更して8分咲きの飛鳥山になりました。
個人的には、桜は開いていくときより、樹に残っている花は少なくとも、散り舞うあの風情こそが美しいと思うので、もし月曜までもてばその散り際を見に、こんどまたひそやかな場所でゆっくりと楽しみたいと思うものです。
花見弁当は諸事情ありて「カレー」でした。
4段重ねのお重にサブジやタンドリーチキン、パニールの炒め物にチャパティって、、、まぁいいか。季節感を超無視したお弁当ではありましたが、そこそこに楽しめてよかったです。実は私自身は飛鳥山に何度かきているのですが、店長はまだ来たことがなかったそうで。つきあう前の昨年春、会社に店長が間接的に「花見がしたい」メールを送ってくれたことを思い出します。豊杯「華吹雪」で一杯、、、といきたいところでしたがいくらなんでもインドカレーでそんなお酒に失礼なことはできないと思いビールでほろ酔い。
ここでお客さんに会ったりするんだよなと噂をすれば影がさす、早速お会いしてしまい赤面。
豊島区巣鴨発祥の染井吉野は、伊豆諸島の大島桜とエドヒガンのあいのこ、江戸末期のうまれ。大島桜の花の多さ、葉の香り、エドヒガンのピンク、葉より先に花が出る性質などをうけつぎ、短命(樹齢50年ほどで寿命といわれる)ながら仰々しいまでの花を咲かせる。
たわわに、あでやかな桜花に、酔う。東京は風流を求める人たちの手によって数百年にわたり桜が愛され、植え継がれてきた都会だと、こんなところでもつくづく感じます。私の故郷広島の花崗岩地帯にはそんな風流もないし、ソメイヨシノが生きぬけるような地質ではなかった。
古の平安人が詠んだ桜はソメイヨシノの華やかさではなく、細かく言えばどこまで分類されるのかわからない総称「ヤマザクラ」の、山に混じって葉とともにひらく慎ましやかな華やぎだった。山にマンサク、コブシ、タムシバがひらき、やや遅れてヤマザクラガ混じるあの風情は、山や自然と共に生きていればこそ全身で悦びを感じる風景だったでしょう。
西行が願わくは/花の下にて春死なむ。。。と詠んだ頃の花は山桜のことだったのでしょうね。深草の/野辺の桜し/心あらば。。。もきっと山桜のみごとなものだったのでしょう。夕霧によって紫の上にたとえられた樺桜は、やや朱色がかった桜の品種ときいていますが、ソメイヨシノ系で量れるものではなく、どんな桜だったのでしょうか。
先週伊豆大島に仕事で行って、大島桜の満開~散るところを堪能して、この優秀なバラ科の植物の文化に与えた影響を感じて春に身を漂わせてみました。