コントロールを超えた治療 を書きながら、補足したいことが派生しました。当記事では、
常識的で理に適った思考で、状況の打開、改善を目指すことは、誠実な人なら当たり前にやる
ことだけど、そういう「合理的思考」によらないコントロールを超えた治療というのがあると
書きました。例えば、この状況は悪いから一刻も早く抜け出そうという真っ当な思考に基づく
努力にもかかわらず、悪状況を不運にも余儀なくさせられ続けたせいで、思いがけない治療の光が
差したりです。そして補足を書くと、そのジョーカー的な治療は真っ当な治療への努力の
下支えがあったからこそそっちに飛んで行けた……。
だから、地道な努力は「これじゃなかったやん。無駄だった。
持ってかれた」ではなくて、それがあったからこそそっちに行けた。そういうのってあると思います。
下支えをした地道な営みは無価値化されやすいけれど、それは誤りで、多大な成果である。
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上に書いたことと関連しているかもしれませんが、私が子育てにおいて思っていることです。
子どもに対して、だめで元々、弱くて元々、「できない」という前提で傍で見守っていると、子どもは
却ってできたりします。そして、「できる!」という浮ついたポジティブな前提を敷いていると、むしろ
できなくするように思います。小児精神科医や心理士や精神分析医ではない私の勘では、それは
心のセーフティネットだと思います。できなくて当たり前、か弱くて当然という(意地悪な眼差し
ではなく承認的な)前提を敷くことで、子どもは安心してそれに取りかかれる。
その時点で、「できた」の位置を10としたら既に5まで行っていると思います。自分の今の状況を
保護者や支援的立場の人に的確にわかってもらっていることは、「できる」へのステップの半分
ぐらいにまで既に達成しているようなもの。逆に、浮ついたイキリは寄る辺ない不安を起こし、
「できる」からむしろ遠ざけてしまいます。リラックスではなく緊張をさせこわばらせると、
できなくなります。
自分の弱さや感じている負の感情を他者に代弁してもらえたら、次のステージに進める。
例えば子どもにとって明らかに いやな出来事などが起こった時に、当の本人はそれを感じていて、
そこで同じ気持ちを私自身が感じているものとして言葉に出すと、子どもは次のステージに
行けるというのを体験しました。もし、そのいやな出来事へのありのままの感想を
抑圧させて何もなかったかのようにしていたら、むしろ子どもが次に切り替えるのを
阻害すると思います。自分が感じていることを、親などの親密な存在が感じているという
共有によって、その人は安心して、次の一歩に出ることができると思います。
ここからは、1人でいけるよ 大丈夫