外に出ると空気に春が漂っています。あの感じ、とても好きです。
散歩道の民家の梅の花が咲き始めていました。春が来る兆し、嬉しいです。
真島昌利の歌に出てくる「梅の花が咲くころには ひどい ひどい ひどい ひどい 渋滞だ」
というフレーズを、梅の花を見ると思い出します。 情報時代の野蛮人 (1994.12.30)
看護師さん達が週3で来てくれていて、とても助かっています。いつも私に寄り添って傾聴し
共感してくれ、私の希望を聴き出して、叶えるために考えてくれます。決して否定したり説教したり
操作したりしません。とても優秀な女性達だと思います。一方、こういうことも思ったりします。
意思によらない治療のことです。人間の考え至る合理的で常識的な考えの及ばない、
コントロールを超えたところにある 思いがけない治療のことを。
望んでいない状況に置かれて苦しくて、看護師さん達はそこから脱出して私の望む状況に向かう
道筋を真面目に立ててくれる。これってまともな思考の人なら当たり前にすることで
私は彼女達に信頼感をもっています。でも、例えばその望んでない状況を余儀なくされている
うちに、思いがけない治療的な光の筋がふっと降りてきたり、そういう偶然の治療ってあるな
と思う次第です。そんなことを言うと常識的に真摯にやってるのを否定するように聴こえ、
そうではないけれど、一方で人間の「合理的」思考では発想に至らない治療、改善もあるんです。
超人的に賢い人が精密に思考をしていけば、考えつくのかもしれませんが、私はそれは思考ではなく
感覚の持ち場だと思います。感覚は、思考では到底至らない正解を静かにわかっていたりしますから。
精神科医の石川憲彦さんも似たことを本に書いていました。 環境神話
例えば、精神疾患を発症して心が乱れている人に、医者や家族は良識的な考えから、静かな所で
安静に過ごさせるけど、却ってそこで心が乱れて治療にならず、騒がしい喧噪のある所にいた方が
心落ち着いて治療になったり。穏やかな環境というのは、誰もがイメージするテンプレートが
そうだとはならず、一般的には穏やかな静養場所とは思われない環境が本人の精神にとっては
穏やかな環境だったりも大いにあり得ます。だから治療とはとても複雑で深淵なものです。
テンプレになんの疑いも持たず寄っかかる事しかしない、治療をする気が本当にはないやっつけ
医師が多い一方、そういうのを理解している医師はとても思慮深く、珍しいと思います。
そういうことからも、私は絞込み検索で結婚相手を選んだりすることは傲慢だと思うんです。
人間の思考を絶対視、過信すると、セレンディピティが寄りつく隙がなくなってしまいます。
それに人としての厚みがぺらくなるだけだと思うんです。