色んな人が社会批判をし、まっとうな世界を目指す思想を語り、それに私は賛同しています。
でもいつも思うのが、足元ではどうなのか ということです。守られた大学の講堂や壇上や紙面で
立派なことを言ってる人達は、自分の足元でもそれを体現しているのか ということです。
そうでない現象を見てきて、口だけの知性・欺瞞 や 構造の中の差別意識というカテゴリで
書いています。自分の関係者に対しては非常に暴君で権力大好きで、パワハラと隠蔽は朝飯前で
ささいなことで逆鱗に触れ報復をし、男尊暴力思考丸出しで、詭弁のへ理屈でやり込めようとし、
独裁に憧れている…そんな人が書籍や紙面では、パーフェクトな弁論を見せている…
その現象については、私が自分なりの未熟な表現で提起する前からずーっと、言われていることでした。
一部の男性陣も言っていますが、特に女性達が言っています。対外的に言ってる思想と内部でやってる
ことが分裂している人達の行動を指す言葉が既にたくさん存在していて「それ!そのこと!」と
なります。私が拙いながら「聴いて!」と訴えていた実態は、既に多くの女性達が
言い続けていることでした。そして、彼女達はめちゃくちゃ頭がいいです。
首から上と下が繋がっていないことを 私は「分裂」と書いていましたが
それより邪悪なパターンがあります。言ってる主張とやってることが矛盾している状態について
開き直って、それらが一重になるべきとさえ思っておらず、一重にすることを前提にしている
人達を「青二才」「おぼこ」「お花畑」 みたいに嘲りさえしている「運動家」がいることです。
運動とはそういうもものだ なにを青臭いことを言っているのだ 素人か君は みたいに。
でも運動を知らないのは彼自身で、言っていることを自らの足元から体現している人達を
私はたくさん知っています。自分の家庭や所属団体で、なにをやっているか それが本当のことです。
言ってることとやってることが一重になる必要性すら 思っていないならただのく○だと思います。
そして、私達は生まれた時からこの構造、流れの中に生きていて、その影響から自由な人だといない。
それでその構造、流れを変えようと言うのだから、私達は戸惑いながらやっていくしかないと思います。
自分の中にある意識を「そんなものは私にはない」と嘘を決め込むのではなくて。
欺瞞で塗り固めたまま頭と口だけで理論を滑走させても、なにもいいことにはならない。禍が起こり
まくっています。足元の醜態はスルーしたまま なにが運動だと思います。