いいものはこういうものだ、いいものを作ろうとする態度とはこういう風だ、
良い関係性、誠実な態度とはどういうものか、という指標があるから、それに
明らかに反するものを見て、劣ったものだとか質が悪いとかおかしいとか判断できる。
自分の感覚に、嘘はつかない。指標があるから。
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でも自己欺瞞状態では、それがいいものだ、正しいものだという予め決まっている
結論(自分の都合による願望)に自動的に向かっているだけだから、どれだけ
その逆である事実を教示することが目の前で起きても、都度、それを正当化する
詭弁を頑張ってこね回し、ゴールポスト(指標)を絶えず恣意的にずらし続ける。
結論はありきで固定だけど、指標はいかようにもくねくね動く。
conclusion already made
destination set in advance
その行き着く先は、完全に「頭おかしい」「とち狂った」状態。誰から見ても
それは美しくないし 良くないし、誠実じゃないし、ちゃんとしてないし、
すべて逆なのに、本人はそう言い張る。天地がひっくり返った状態。
ゴールポスト(指標)をずらしてずらして正当化の詭弁をこね回してきた結果。
ありのままの認知を自己欺瞞で絶えず歪めてきた結果、驚くべき壮大な
認知の歪み(というか、認知の逆転、反転、ひっくり返り、倒錯…)に
平然と行き着いて、露わにしてしまう。高学歴で頭脳明晰な筈のその人が
他人から「認知症ではないか」と言われる事態に行き着く。
普通の目には明らかなことを否定し、実態と真逆のことを言う。
指標はとても大切だと思う。
これをもっていれば、感じたことを歪めることなく、おかしいことはおかしいと
言えるから。それを恣意的に自分の都合でずらしてはいけない。
大学教授などにもこの手のとち狂ってる人がいる。自己欺瞞の思考をこね回し過ぎた
結果、水が上から下に流れることも、りんごは空にではなく地面に落ちることも、
1+2=3なことも、太陽は東から上って西に沈むことも、素で否定する。
私はそういう「教養人」を見た時に、学ぶとはなんだろうと、ぽかんと思う。
当たり前のことが見えなくなることが、学ぶことなんだろうか。
当たり前のことを言うと、「お前は何もわかっていない無教養な凡人だ」と
勿体ぶって高尚ぶるスノッブ。学ぶほどに見えなくなるって、なんだろう…
レモンは酸っぱいことを否定して甘いと強弁する。
モモは甘いことを否定して、辛いと言う。
誰にもわかっていることの逆張りするのが、知性なのだろうか。
こういう人って「芸術家」「アーティスト」「クイア」界隈にもよくいる。
逆張りアート程、薄っぺらくて寒いものはないのに…
歴史と共に洗練されてきた叡智、先人の血と涙の犠牲の上で獲得してきて私達が
享受している恩恵…を粗末に扱い、ちゃぶ台返しして上から目線の「教養人」は
「僕ってすごいだろう」「お前ら凡人とは違うのさ」と言いたいだけの中二病
にしか見えないのだけど…。
自分に植え付けられた偏見、搾取者の利益にしかならない価値観や
有害なルールの内面化に気づき脱構築しようとすることは賛成。
けれどそれがおかしな方向に行くと、ただのバカになってしまう。
脱構築してはいけない、人間が備えておくべき構築物って、あるよね…