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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ワカサギを釣る人

2011-01-16 18:43:56 | 西天竜

 西天竜幹線水路の深沢川サイフォンの吐き出し口に、最近人影をよく見る。釣竿をたらしているからといってゴミを吊っているわけではない。このごろは地方新聞に西天竜幹線水路にゴミが多いという報道がよくされていた。深沢川サイフォンの出口に大きな物が浮き上がっている光景も時おり見る。そして管理のために水を止めたときが見事なもので、サイフォンのような場所にはゴミが集中する。釣り人曰く、「西天竜ではここが(釣りには)一番」らしい。考えてみれば、ここから中央道横断橋を渡るところまでは勾配も緩く、流れはゆったりとしている。何より断面が矩形ではなく、台形で水面は広い。かつての造成時の幹線水路も同様に上が広く、下が狭い水路だったが、昭和時代に改修された際にほとんど矩形に変更された。浮上しないためには矩形の方が有利だ。しかし、水路の流れという面では台形の方が同じ流れの断面内において流速に差が出る。したがって水面近くの流速は矩形よりはゆったりとする。そんな区間が吐き出し以降に続くことから、そして吐き出し口が広くなっているということもあって、魚たちにとっては住み安い空間と言えるのかもしれない。釣り人に言わせると「今日はまったく・・・」らしい。なぜ日によって違うのか問うたが「それは解らない」という。釣れるときには2時間程度で50匹以上のワカサギが釣れる。この日はポリバケツの中に20匹弱だっただろうか。もちろん諏訪湖からやってくるワカサギである。ここならば鑑札もなく吊ることができる。「天竜川はどうなの」と聞くと「水量が少なくてダメ」らしい。別の場所でも釣り人がいたが、そこはふつうの流れの途中だった。素人でもここの方が釣れそうだということは解る。

 さて、先ごろ「長野日報」に「不法投棄絶対ダメ!」という記事が掲載された。伊那小学校の4年仁組の取り組みは「水」の勉強だったようだ。身近な「水」という捉えの中で西天竜幹線水路を対象にした。伊那小学校に流れ下ってくる水は西天流の水だから(それ以外の水もあるが)、確かに身近な「水」の一つである。学んでいく中で西天竜幹線水路にゴミが多いことを知った。まとめとして新聞風に各自テーマを絞った文章で綴られたものと、不法投棄防止のためのポスターを作成した。それらのコピー版が辰野町から南箕輪村までの幹線水路沿いのフェンスにこのほど掲示された。とくに昨年の夏、布団が絡んで分水口が詰まった場所にはたくさん掲示された(伊那インター東側)。記事に「悪い人がたくさんいるんだ」という子どもたちのコメントが掲載されているが、なんとも情けない話しである。

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西天竜旧導水路の残影

2010-12-20 22:18:16 | 西天竜

 『西天竜史』(西天竜土地改良区)において幹線導水路の工事について次のように記している。「大正十一年十一月起工式を挙げ、昭和三年十一月に竣工した。延長は六里二十四丁三十六間六分で、取入口より小沢川放水ロに至っている」と。7年という短期間に造られたわけであるが、換算距離は約26,247メートルになる。ここで示している「丁」は「町」のことになるが、「分」という表示が今ひとつ解らない。尺貫法によれば間の下の単位は尺にあたるが、本書では延長について「尺」で表示された部分はない。「1分」についてはメートルに換算すると尺・寸より下にあたる3.03mmになるが、どうもここでいう「分」はこの「分」ではないようだ。読み替えて「歩」としたとしても1歩は6尺、あるいは8尺と言われていて、1間が6尺であるところからどう考えてみても「歩」を表しているわけでもなさそう。ということでとりあえずここでは「分」を切り捨てて話を進める。

 幹線導水路は上流側から工事が進められた。5期に分けられた工事のうち第1期工事は取水口より現在の辰野町横川川を横断するサイフォン出口までをいい、大正11年11月に始まり、同14年6月に竣工している。取水工とともに、山峡に導水路を設ける工事だったということもあって、期間はもちろんのこと工事費も最もかかった区間である。以前現在も残る水路橋のことを記したが、80年以上も前の施設がなぜそのまま残っているかというと、新たに隧道を新設したりしたため、旧施設を取り壊す必要が無かったという理由がある。とくに第1期工事で造られた施設は、当初は天竜川に沿って山腹を蛇行しながら造られた開渠であった。最も時代も古く、そして条件が悪かったということも手伝ったのだろう、造成後まもなく漏水などの問題が浮上したようだ。古い新聞の記事を見ると、露出した水路橋からの漏水によって巨大な氷柱が写っている写真も見受けられる。これを県営事業として隧道化する工事が立ち上げられたのは昭和17年のこと。事業概要には事業を必要とした理由について次のように書かれている。「開渠はコンクリートとの側壁がうすく地盤に盛り土の所が多く、又コンクリート工事の草創時代の構築であったため、施工上にも多少適正でなかった点があり、冬期零下二十度余に降下するので、寒気と凍結によってコンクリートに亀裂が生じて、鉄筋は殆んど腐食切断され、七回も決壊したりした」とある。とはいえ、この県営事業による以前にも災害復旧という形でそれこそ戦時中に隧道化の工事が行われていた。そのいっぽう県営事業は戦禍が激しくなり、実質的には戦後になってから隧道化が進められることになる。取水後天竜川の左岸を流れた幹線導水路は、天竜川を渡るとそこから下辰野まで延々と山腹を流れていた。天竜川横断から下辰野までの山腹には、かつての水路の姿があちこちに見ることができる。写真の施設はホタルで有名な松尾峡のすぐ直上に残るものである。ここから現在の松ケ丘団地の道路下を流れて法雲寺裏の隧道へとつなげられていた。山腹の土留工のような機能を有すこれらの残影は、戦渦に見舞われる直前に災害復旧で隧道が完成することによって生まれたのである。ちなみに松尾峡から伊那大沢までの山の尾にはこの残影が見えない。なぜならば山の尾は最も被災が頻発した部分だったようだ。ようはあらかた旧水路は崩壊してしまったり埋没してしまったというわけである。

 造成時の第1期工事の工事費は、1,188,618.55円となる。この間の事業量は2里2丁23間3分と記されている。概ね8,133メートルとなり、1メートル当たり146円弱ということになる。

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文献から読む歴史④

2010-08-28 22:54:46 | 西天竜

「文献から読む歴史③」より

 西川治氏が「西天龍灌漑水路開発に起因する景観の変化」をまとめたのは1951年のことである。終戦後6年ほどのこと。この時代がどういう時代であったかをある程度捉えたうえでないと、その意図が読み取り難くなるのだろうが、わたしにはその時代のイメージがいまひとつ解っていないのかもしれない。西天竜幹線水路が完成したのが昭和3年のことではあるが、開田工事はさらにそれから10年以上の歳月をかけて行われた。西川氏の解説を読んでいると開田によって必ずしも農業経営が飛躍したという印象を持てない。しかし、水のなかった段丘の上に念願だった水が導水されたことは、大きなことであったことに違いはない。戦争中でありながら建てられた記念碑の存在は、この地の人々にとっては戦争という悲しみを打ち消すようなものだったのかもしれない。これこそわたしの思い違いなのかもしれないが、このあたりはこれからも注意して記録を紐解いていきたい。

 西川氏は「結語」の中でD.H.Davisが1948年に人文地理学の教科書に掲載したかんがい事業への警告を引用している。「たとえ、かんがいされた土地は見掛上魅力的であっても、凡ての事情を考慮すればそれは決して、かんがい水の供給によって起った変化が、好ましい改変をもたらし、永く環境条件を改良することにはならない。出現した様相はアトラクティブに思えても、かんがいによってもたらされた諸結果は、乾燥地あるいは半乾燥地を緑の耕地に変えるために費した費用と時間とを償わないことがしばしばある。同じだけの努力と金額とを別の何処かに投資すれば、もっと多くの価値を社会に与えることが出来るからである」というもの。乾燥地帯にあてはまるものであって、必ずしも日本で言えることではないものの、「田用水かんがい工事にとっても反省を与える言葉となろう」と指摘し、「すなわち、計画されているどの工事も、投下される一切の資本に対して、もたらされる効果は穴埋めして余りあるものばかりではあるまいと思われるからである。水田化ばかりが能ではなく、畑地利用の高度化、原野の高度な牧場化も推進せねばならない」とまとめている。西川氏の忠告はまだ米の生産調整が始まる以前の話である。農業用水の水利用は増え続けていった。それは開田という行為が続く限り水源が求められていったわけで、その後生産調整が始まろうと、減水することはなかった。もちろん耕作地の減少によって少なからず整合は図られたが。後のかんがい排水事業の中には、図らずも西川氏の指摘通りのものが聞き伝わっている。人文地理学がどのような学問なのか認知しないが、この国の流れは、戦後明らかに学問の教えを無視して進むことになったと言えはしないだろうか。

終わり

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文献から読む歴史③

2010-08-27 12:25:10 | 西天竜

「文献から読む歴史②」より

 新規に開田された地域に集落ができるということが、どういう地域現象を起こすか、そのあたりについて西川治氏は論じている。「長野県の町村別に1930ー1935年の間の人口増減を調べると、一般に水田地帯の農村の方が、他の地方に較べて人口支持率において強い」と言う(浜英彦「人口移動序説」を引用)。その上で1925年から1935年における上伊那郡内人口増減状態をみると、増加傾向を辿っている町村は「西天地区を容れる3町村と、赤穂扇状地にある二つの町村である」と指摘していて、いっぽう増加地帯の周辺、とくに天竜川以東においては高い比率で人口減少が起きているというのだ。「水田の多いものは桑畑の多いものに較べて1930―1935年間における人口減少が小さいことは興味深い」と指摘する。これは戦後のことではなく戦前のことである。ちょうど満州移民が始まる。「移民をたくさん送り出した町村が果たして養蚕に主として頼っていた所であったかどうか。そして移民への志向が恐慌によって拍車を掛けられたか否かを追及する必要がある」としている。ここに西天竜の開田がこの一帯での人口減少を食い止めたという考えが持ち上がるわけだが、西川氏はこうも指摘する。「1930ー1935年間において人口が増加した町村と減少した町村とに分れるが、増加した町村にしても自然増加による増加数に達していない。すなわち人口の移出が行われていることになる。従って、たとえ森林原野や畑地の水田化が人口支持力を増したとしても、この期間には、最早自然増加による人口を凡て包容する余力が尽きていたと解される」と。

 西川氏は中箕輪町にできた原集落と春日集落についてその出身地をまとめている。天竜川以東から移住したものもいるが、ほとんどは開田地帯の周辺からの移住者である。小作などをして生計を立てていた人たちが、自作できる土地を求めて移住してきたということが言えるのだろうが、このことからもこの地域にとっての新たな集落は、この地に関わるそもそも自作地を持たない人たちへの提供の場であった程度だったのだろう。本来であるならば山林原野を開き、住人の食い扶持を確保するところだったのだろうが、それをできない要因は、やはり水だったということなのだ。

 まだ水道が普及されるには早い時代のこと(まったくなかったわけではないが)。原や春日といった集落のある場所は、周囲に水気はない。古くよりある大泉あたりとは条件が違う。住処を求めたとしても飲み水をどうしたのか、ということになるが、「大正末までは大体10戸で1つの井戸を共同使用していたが、開田以後逐次井戸が増えて、現在では150戸の中100戸余りが井戸を持つようになった。これらの新しい井戸は古い井戸が10間以上の深さを有するのに較べて、5~7間位の比較的浅いものである」と西川氏は述べており、これは西天竜へ導水したことによる地下水上昇ということが言えるわけだ。しかし冬季間になれば水は減る。導水が止められたりすると水不足になるわけである。いずれにしても水気のなかった段丘上に導水したことは、大きな環境変化の要因となっていったのは事実である。

 続く

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文献から読む歴史②

2010-08-21 23:09:19 | 西天竜

「文献から読む歴史①」より

 本題に入ろう。西川治氏が著した「西天龍灌漑水路開発に起因する景観の変化-動態的研究の一例-」が指摘しているものを拾ってみる。

 「開田は大体幹線の近くの原野、森林、畑から順次行われた。開田が下方に近付くにつれ、専ら畑を田に変えねばならなくなった」ことによって農家にとっても重い選択が迫られたという。以前にも「『西天龍』の回顧談から④」で触れたように、当時は養蚕がまだ盛んに行われていた。換金できるものとして養蚕は生計の上でウエイトが置かれていたものであって、やすやす水田に転換することはできないと思う人たちもいたことだろう。生糸価格が昭和5年に暴落しその後若干回復するものの、そうした傾向は開田に大きく揺り動かされる要因になるはずだったが、いっぽう米価もけして芳しくはなく、開田に足踏みをした人たちも少なくなかったようだ。原野や山林であればもともと生産に効しない土地であるから良いものの、選択に迷うであろう桑園の水田化は迷いの種だったというわけである。西川氏の文面から察するところ、幹線水路側から開田は進んだようだ。幹線水路が既に供用されていたわけだから、その水を利用できる水路際から開田が進められるのは当然のことなのだろうが、こうした開発の流れからすれば、用水路は幹線水路際が最も大きく、遠ざかるほどに小さくなっていくというのは理に叶ったものである。ところが開発し尽くされてしまうとかつてとのこうした水路の常識は当たり前のように批判される。「なぜ上流よりも下流の水路の方が小さいのか」と。

 西川氏は未開発であった山林原野と集落の発達・人口というところに視点を置いて触れている。わたしが今住んでいるところも戦後もまだ山林があったところ。今はほとんど開畑されて山林をみることは全くなくなったが、伊那谷の段丘上には記憶にまだある時代まで山林があちこちにあったようだ。西天龍でも開田によってその山林は姿を消していったわけであるが、こうした開発は新たな移住民を促していたことも事実で、このことは以前「『西天龍』の回顧談から③」で触れた大正9年9月10日報知新聞の切り抜き記事に書かれている。「農業労力の不足を告げて居る同県(長野県)は経済界の打撃に依り多少帰農者が増加して労力の供給が多少加わったとはいえこんなダダ広い新開の土地を耕作せしむるの余裕はない仍で同県は地主等と相談して県下各地から篤実なる小作農家を選び開墾地に移住せしめ現在とは全然別な新しい一村を建設」するというのだ。しかし、実際には村が新たに創生されたという事実はなく、せいぜい集落程度であった。それがなぜかということについては西川氏が解説している。

 中箕輪村原集落(西川氏の論文では南箕輪村と記述しているが中箕輪の誤表記と思われる)は新集落であって、その農家は「主に小作による分家から出発したが、農地解放後であっても、依然として5反前後の零細農であり、梨の栽培、豚の飼育、日傭等により生計を補わねばならない」と言い、新たに住み着いた農家にとっては零細農業を越えられるものではなかったのである。そしてこう西川氏は説明する。「西天地区にはもとの山林と原野から水田に変わったのが374町歩あり、この分だけ仮に全部農家に分配されれば、平均1町歩として374戸の新農家が生まれるわけである。しかし、常識的に考えて、374町歩の中、大半は既農家に併合されるとすれば、新農家が分立する余地は非常に限定されてくる。1950年で既に約150戸に達しているから、今後はもうそれ程増さないであろう。中箕輪町では1947年8月に農家1戸当の経営面積は8反弱の線に達しており、この中、田が約半分であり、大体2年3毛作の土地柄としては少ない方である。従って兼業農家は36%に達しており、しかも純粋の自作は24%に過ぎない。一方小作は36%で、他は自小作と小自作である。この数字は西天開発後の分家も、小作が多いことと関連していようし、一方農地解放後の農家分家は最早ほとんど不可能に近いことを暗示している」と。かつて山林が残っていたというのは耕作できるだけの人手がなかったからのことで、人が住めるようになればその山林は農業生産の場と変えられていった。西天竜の場合はそういう理由もあったのだろうが、水がないために農業生産の場に変えられなかったといった理由の方が強く、開田されてももともとの地主、あるいは耕作者が規模を増やしたというのが実際だったのだろう。

 続く

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文献から読む歴史①

2010-08-14 18:58:38 | 西天竜

文献を探すということ」より

 地方にいて文献探しに苦労をした愚痴を述べたが、探し当てたものが期待を上回るものであると、またその苦労も晴れる。「文献を探すということ」で述べたように、『西天龍』の内容は西天竜土地改良区が後に発行した『西天竜史』では今ひとつはっきりしなかったことや、この大規模事業によってどう地域が変化したかということを教えてくれた。そもそも西天竜について記述された歴史的資料価値のあるものはとても少なく、全容が記されたものはこの両者ぐらいしかない。おそらく古い時代には現在に至れば忘れ去られてしまったようなものが、印刷物として多く出されていたのだろうが、『西天竜史』以降はまったくそうした整理がなされてこなかったといえるし、文献としての蓄積もされてこなかったようだ。また郷土研究という分野でも触れなかったのは、何らかの理由があってのことだろう。かつてこの地域を大きく変貌させた歴史的事業に位置づけられるものなのに、ただただ用水路は静かに流れていたわけである。

 さて、地理学系の長野県内文献目録と、『長野県土地改良史』に記載された関係文献目録のいずれにも記載されていたものの、近隣はもちろんのこと国立国会図書館にも所蔵されていなかった「西天龍灌漑水路開発に起因する景観の変化-動態的研究の一例-」という文献を探し当てた。昭和27年に発行された『東京大学地理学研究』の2号に掲載された論文で、西川治という方が書かれている。年代的には『西天龍』が昭和29年に発行されており、その「序」には「昭和27年度より西天龍調査委員会を設けて」とあるようにほぼ同じ年代、そして西川氏の調査のすぐ後に調査を始めたものと言えるだろうか。西川氏の論文を読むと、『西天龍』で問題定義している項目とかなり一致する。後発であった『西天龍』はこの西川氏の論文に目を通しているのかどうかまでは『西天龍』のどこにもそのことが触れられていないため、はっきりとは言えない。しかし両者の指摘している内容が重なっているということは、当時の西天龍における諸問題というものが幹線水路完成後25年ほど、そして開田が竣工して10余年という中で顕在化してきた時代であったのかもしれない。

 西川氏は「動態的研究の一例」と副題をつけている。「政治や経済上の動因が広い範囲にわたって影響を与えた時、各地域がどのような変化を受けたかを比較研究することは、地域の特性を明らかにするのに一つの有効な手段である」と述べ、個々の事象が現に起こっている間にそれを捉え、分析し、地域の変化を研究しておく必要があるというのだ。それに必要なフィールドの一つとして「大規模土木事業が行われた土地」をあげており、西天竜の灌漑水路開発をピックアップしたと言うのである。あたかもわたしたちの目にはこの一帯の水田地帯は遠い時代より続いてきたような錯覚を受ける。それはよく言われる里山が昔から同じ姿をしていたかのように思い込んでいるのと似ている。しかし、現実にはこれら舞台は数十年、あるいは半世紀単位に姿を変えているといっても間違えはないほど景色を変えてきている。もちろん西天竜は既に100年に近く水田耕作が営まれてきたため、そこに暮らしているほとんどの人たちが「変化をしない空間」と捉えているかもしれない。前述したように戦後間もないころ、今から半世紀以上前に動態的研究に焦点が当てられたわけであるが、その当時の動態的視点をもう一度検証するときがこの半世紀にあっても良かったはずである。『西天龍』に記述されたその視点について、わたしはこれまで触れてきたわけであるが、今後の半世紀、そして一世紀がどうなっていくのか、そんな危惧に苛まれながらも、西川氏の捉えた詳細な研究をもう一度振り返ってみたい。そしてその後の半世紀において、そこに暮らす人たちが掲げられた問題をどう展開してきたのかどうかというところを今後捉えていかなくてはならないのかもしれない。

 ところで西川氏の捉える視点に則ったものは、おそらく農林水産省系の雑誌や機関において発表されたものも多いはず。にもかかわらず文献があったかなかったかすらはっきりしない。そもそもが技術系の印刷物など時が過ぎれば何の価値もないものなのかもしれない。しかし、文系の視点に立つと、既に過去のものとなった技術が必ずしも無意味ではないともいえる。長年技術畑に働いていて、今ごろそのようなことに気がついていても遅いのであるが、大きな変化を与えたと思われる「その時」捉えるとき、思いがけない史実を掘り起こすことも考えられるのである。

 続く

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文献を探すということ

2010-08-13 12:33:13 | 西天竜

 そもそも素人の何とやらで、思いたったことを次へ次へとあさっているにすぎない最近のわたしの日記。そのテーマの一つに「西天竜」があったわけであるが、性格だろうか文献をあさっていると違ったものも「ついでに」という具合に気になるものをピックアップするようになった。学生ではあるまいしたくさんの文献を集めたところでどうなるものでもないのだが、少しまとめておかなくてはと思っている。ここのところ盛んに利用してきた『西天龍』という北部教育会西天龍調査研究委員会のまとめたものは、衝撃的なものだった。かつての教員はこうした調査をしてしっかりとまとめることができた。今の教員はどうだろうか。もちろん個々で趣味的に調査研究をされている人たちはいるのだろうが、その成果はなかなか本格的なものまでいたっていないのではないだろうか。昔の教員は「暇だったから」などという解説をされる方もいるかもしれないが、果たして本当にそうだろうか。同じことは教員外にも言えそうで、地方にいてもその地方を学ぼうという人の少なさにはびっくりする。

 個人情報保護という壁が、さまざまな部分でやりづらさを実感させることも事実だ。先ごろも触れたように、データを開示してもらおうと思っても簡単には出てこないし、では個人に直接あたって調べようとしても、うさんくさく見られて一般人が調べることは容易ではない。もちろん博物館の人間であっても昔のように名刺一つで簡単に口を開く時代ではなくなっているのかもしれないが、それでもわたしのような全くの興味本位の者には玄関のドアを開けてもその先は狭き門となってしまった。いろいろが手間がかかり、金銭的にもかかり、そしてそんなどうでもよいような技術(ものを調べるという技術)が必要となる。このところの図書館での文献探しもそんな技術の一つなのかもしれない。図書館にもよるのだろうが、伊那市立図書館では親切に文献を探してくれる。もちろん探した後の費用は馬鹿にはならないが、閲覧できなければ話は始まらない。金をはたいても「なんだこれだけのものか」と思うような内容でも、実物を確認してみなければ批評もできない。先般の『西天龍』という書物、A5版121ページというものであるが、上伊那郡内の図書館で検索しても蔵書としている図書館は皆無である。唯一伊那市手良公民館の図書室にあるというが、もちろん禁帯出である。戦後間もないころの発行とあって、所有している人も少ないと思われる。しかし内容は西天竜を扱ったものとしては右に出るものはないだろう。それどころか西天竜を扱った調査研究物そのものがまったく少ないのが現実だ。

 さて、今までにこれほど真剣に文献をあさったことはなかった。そもそも国立国会図書館の存在は知っていたが、そこまで複写依頼するほど「集める」ことに執着しなかった。閲覧できるだけの文献で済ませようというのがいつものいい加減なわたしのやり方だったからかもしれない。そして図書館にはただ本を探しに行くだけではなく、もっと利用法があるということも解った。やはり人口集中地域にいないと、いろいろできないということも解った。

 続く

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『西天龍』の回顧談から⑥

2010-07-29 19:57:23 | 西天竜

『西天龍』の回顧談から⑤より

 前回南箕輪村大泉の原孝也氏の「記念碑について」(『西天龍』北部教員会西天龍調査研究委員会編/昭和29年)から西天竜開田事業の記念碑について触れた。同書の中の回顧談は12編あるが、この原氏の「記念碑について」には、奥様である原美寿ゞさんが書き加えている。回顧談に唯一の女性の寄稿なのである。彼女の記した文を引用してみよう。


 この大泉の開田前は150戸の農家があり田は十町歩そこそこで殆どどの家も粟を主食に大豆、稗を作って混食にしておりました。米のご飯は粟の中にちらほらあるのがあたりまえであったわけです。何んとかして米のご飯をたべたいと私共婦人のはかない望みであったのはたしかだと思います。又水にも大変な不自由をしていました。水くみも家事の大きな仕事の一つであり、朝顔を洗いその水を掃除用に使ったり、又にまでもするような生活をしていました。このような生活をしていた大泉の人々が西天龍の開田の工事には実に真剣そのものであった事は事実でした。開田々々と言ってまるできつねにでもつかれた人のようでした。中でも主人は工事に最初から出通していました。毎日のように技術者や県の役人の方が来られる、お茶又昼のもてなしなどで大変でした。それからとまられる事もあり、家では養蚕を広くやって居りましたから忙しい時には接待に、くい蚕、すて拾いなどでほんとうになくような忙しい時もありました。しまいにはお茶の用意をしておいて野へ出なければならないことが毎日のようでした。
 このような生活をしたのですが今でも主人と苦労した話をするのですが、近所の人は西天龍には日曜はないのですかときかれました。後には家に雨が降ればあっちにもこっちにも「おけ」や「バケツ」を置いて雨もりを防ぎました。倉も雨のためにかべは落ちてしまう始末でした。
 又水騒動の時は主人に刑事がつきまとっていて口にはいわれないいやな思いをしました。二人の刑事が来て昨日は何時に長野を出たわけだが家に帰らなかったかなどときかれ「まだ帰って来ませんか」とこたえました。「そん事はない」などといわれて何とも言えない苦しい思いをして来ました。(後略)


というようなものである。回顧談を寄稿された方々は、これまでに触れた内容でも解るように事業を中心的に担われてきた方々である。反対される方々もあっだだろうが、それよりも大きな壁は対外的な対応だっただろう。この幹線水路ができたことによる水争いの激化は何度も項を改めて記してきた通りである。川岸頭首工での警察が介入しての騒動は新聞に年中行事と書かれるほど恒例のものだったという。何より開田を支えてきたのは家族だったかもしれない。奥様の寄稿にその思いがよく現われているといえる。今でもなぜここに集落ができたのかと少なからず疑問の浮かぶ大泉。地名は「大泉」とはいうもののその実は「尾泉」と言われ、水の乏しい地域だった。確かに川の端に位置するものの、その集落は川に沿って展開されるのではなく、直角方向に広がる。集落内では井戸に水を頼った。中には灌漑用にと横井戸を掘った人もいる。水を求める思いが結実した大事業だったわけであるが、それは大泉だけの願いでは叶わなかった大きなもの。書かれていないが単に開田されただけですぐに思うような水田になったわけではないだろう。開田後の苦労もまたあったはず。何事もなかったように今は春になれば水田に水が浸くが、その歴史に刻まれた人々の思いは計り知れないほど重かったはずである。

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『西天龍』の回顧談から⑤

2010-07-27 12:47:18 | 西天竜

『西天龍』の回顧談から④より



 南箕輪村と箕輪町の境、通称春日街道と言われる幹線道路の脇にとてつもなく大きな石碑が建っている(地籍では箕輪町になる)。開田した地域の50アールほどのスペースを使って建てられている石碑、西天竜開田を記念して用意されたこの石は遠く仙台の稲井村というところから運ばれたものだという。今なら無駄と言われてこのような記念碑を建てることもなかっただろうが、後世に確実に伝承していくモノとしてはけして無駄とは言い切れないものだとわたしは思う。公共事業全盛時代に建てられたおびただしい記念碑があるが、確かに時の権力者の名を知らしめる遺物になっているものの、意識としてその物体がその地域のその後の過程に何かを残すことは必ずあるもの。それを「こんなものを造って」といって周囲が捉えるようになれば、きっとその世の中は、その地域はとうてい歴史を重んじることはできないのではないかと思ったりする。それにしてもこの巨大な石碑、高さ28尺(8.5メートル)、厚さ2尺(60センチ)と言われる。南箕輪村大泉の原孝也氏は「記念碑について」(『西天龍』北部教員会西天龍調査研究委員会編/昭和29年)において「七千円」とこの石の金額を記している。また「この石を駅迄運ぶのに鉄のコロを使って虫の動きのようなものであり、この村は石で生活をしている人達であり全村挙げて協力してくれたものである」と記されており、記念碑そのものの工事も大事業であったことがうかがわれる。鉄道に載せられたのが昭和19年の3月26日のことである。間もない4月1日には「戦時の重点的な方式に変わった」と原氏は述べており、戦争真っ只中の大事業がいかに重大なことなのかもそこから知られるいっぽう、時を逸すればこの碑はここには建っていなかったということになるだろうか。

 原氏は次のようなことも記している。

 さて碑文を誰が書くか相談したところ東条大将がよかろうということになった。さて誰が行ってお願いするかと考えた末、井沢先生(井沢多喜男)に労をとってもらうことになり先生にお話した。すると井沢先生「己は東条には頭が下がらん。」木下信氏に行って貰うようにといわれた。この時井沢先生が不機嫌であり容易に誰に書いて貰えとおっしゃらない。私達も大変困ってしまい、最後にこの問題は私どもには分かりません先生におまかせしますというと先生は撰文は木下信にさせて自分が題を考えらるとおっしゃったそこで木下先生に撰文していただいて井沢先生にみていただいた。四個所訂正していただきこの文に最もふさわしい「鐘水豊物」の題をかいていただいたわけである。

 現在も西天竜を表現する言葉として使われる「鍾水豊物」の四文字。「水をあつめ、物を豊かにする」という解説がされているが、その誕生の背景をここから読み取ることができる。建立されたのは昭和26年10月23日であり、戦争中に始まった碑の建立は長い年月の末に成し遂げられたわけである。

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西天竜の発電

2010-07-02 17:17:01 | 西天竜

 県電気部から始まった今の企業局は、以前にも触れたように相沢武雄時代に開発を推し進め、今はそうした時代の産物の管理が中心となっている。その企業局が発電事業を売却して閉鎖するのは平成23年と言われていた。ところが売却先が決まらなかったり、その清算に手間取っているようでその期日ははっきりしないようだ。西天竜幹線水路の末端にある発電所は「西天竜発電所」という。昭和36年に供用開始された発電所で、灌漑用水路を利用して発電所を設けるという画期的なものであったことは言うまでもない。近年小水力発電なるものが脚光を浴び、農業用用水路を利用して小型の発電システムを試みている事例も少なくない。ところが太陽光発電のような売電価格のメリットはなく、飛びつく人も多くはない。西天竜発電所の出力は3600kwであるが、ここには大きな欠点がある。発電期間が通年ではないという部分で、それは灌漑期間を農業用、非灌漑期間を発電用と期間分けしているせいだ。さらに施設のに老朽化や問題が発生した場合、多くは非灌漑期にその対応をしている。ようは発電期間を減じて水路改修をしているわけで、農業用が優先されているわけである。

 そもそも西天竜の水で発電したらどうかという話は古くからあった。計画時からとは言わないまでも、西天龍耕地整理組合の二代目組合長であった杉原氏(大正13年から昭和4年)がすでに提案していたというから、幹線水路が完成したころからの話である。昭和29年に発行された『西天龍』(北部教員会西天龍調査研究委員会)の中で水路の将来について触れている。昭和24年に天龍川総合開発計画調査のために来伊した大石衆議院調査委員は西天竜に立ち寄り「冬期間の残水をただ放水してしまうのはおしい」と述べたという。冬期間に小沢川に放水している水量が100個(2.78m3/秒)あり放水路の落差を利用すれば十分発電が可能というわけだ。『西天龍』では次のようにその発電計画案を取り上げている。

「発電された電力は、ねだん高い冬季料金によって中部電力等業者に売りその変り夏季ある程度の電力を買い、その電力によって適当な場所(羽場ふち)で天龍川より二○個■■(印刷不明瞭のため読み取れず)の水を揚水すれば夏季灌漑水の不足分を補うことができるという構想によるものである。さて具体的に発電の場所についても大石氏のいわれる小沢川放水路の他に辰野町神戸地籍、松久保も落差四五米で水量一○○個乃至一二○個あり工事等の関係から考えるとかえって小沢川より、有利な状況にある。」

 以上のような主旨でさまざまに検討されたが実現に至らなかったようだが、三峰川総合開発が進む中で実現することになっる。かつて発電所が完成するまでは冬季間も農業用として流されていた水は、前述したようにそのまま放水される水が多量にあった。その水を利用しようというものであったわけで、これによって逆に冬季間における権利は農家から取り上げられた形である。『西天龍』には盛んに「裏作」という言葉が見える。経営の安定化を目指すには「裏作」が行えるような安定的用水の確保だというのである。今でこそ灌漑用の水利権は水田の耕作期間に限られているが、当初は通年で水利権を持っていたはず。それでも水田かんがい期間以外はそれほど水を必要としないということから、その残水を利用しようと考えたわけであるが、水利権を許可する側も余るような水を許可する必要性はない。もともとの残水利用にはまさに残水で発電をという意図があっただろうが、現実的には期間分けしたわけで残水利用ではないのである。このあたりはいかに水利権を取得することが難しいかという現われでもある。一度手放した水利権は容易には復活できないと解っているからどれほど水田がなくなっても従来の水量を維持したがるという農業用用水の現実は、むしろ許可する側の完璧なる優位という関係で派生するのである。まさに天の水「天水」あるいは「神水」並のものなのである。

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続「西天竜」との関わりをはずせない歴史

2010-06-30 12:01:05 | 西天竜

 前回引用した北原優美氏の『諏訪湖氾濫の社会史』は天竜川上流工事事務所(現天竜川上流河川事務所)の発行していた「語りつぐ天竜川」シリーズの中の一冊である。北原氏自らが設立していた事務所がこのシリーズを編集していたもので、これまで61冊の冊子を発行した。西天竜の文献を探していたところ、本書の中にその記述を見つけたわけであるが、そもそも戦前の新聞を紐解いていると諏訪湖と関わった記事がたくさん登場してくる。そんなこともあって、「諏訪湖氾濫」とくれば「西天竜」が登場しないわけがないと思って開いてみたわけである。ここまで調べてくると、天竜川流域のさまざまな部分に視点を当ててきたにもかかわらず、なぜ同シリーズには「西天竜」が登場しないのかということになる。実はこの本のほかにもかなりの誌面を使って「西天竜」を扱っているものがある。それは『東天竜』(三浦孝美・仁科英明著/平成4年)である。同じ書名の本を上伊那郡朝日土地改良区が編集しており(『東天龍』/昭和48年)、そこにも「西天竜」はかなり誌面を割いている(前掲の『東天竜』はこの『東天龍』からの引用が多い)。いかに東天竜にとって「西天竜」が敵のような存在だったかという証明かもしれない。いずれにしてもこれほど存在の大きな「西天竜」を同シリーズに取り上げなかったのは、そんな存在が故の国土交通省との不仲であったためかもしれない。

 さて、東天竜と言われる現在の井筋が開削されたのが何時の時代なのかははっきりしないという。当初の井筋は現在の辰野町平出まで導水されていただけでその下流の樋口まで導水されるまではしばらくかかったようだ。そして実現したのは幕末のこと。昭和3年に完成した西天竜からはかなり遡るわけで、優先度からいけば当然早くに取水していた東天竜ということになるだろう。そもそも西天竜が設置される際に上流にできる取水口に対しての危惧は大きかった。大正8年5月に知事宛に抗議書を申請している。以前より水が不足していたにも関わらず、さらに新たな巨大な取水工が上流に完成するとなれば
、必然的に水不足は進行する。再三の交渉によって西天竜耕地整理組合と契約を結ぶことになる。その内容は下記のようなものである。

第一条 取入口は従来引き入れたる最大水量をひきいるに十分且容易なる設備とし、永久万全の策を計りコンクリート工とし、これが設計及工事監督は一切長野県に委託するものとす
第二条 従来甲が天竜川より引き入れたる最大水量、即ち最高水位は、その取入れ水門箇所に於て、現在水路の状態のもとに海抜(八十乃至壱百秒立方尺)とし、たとえ如何なる場合と難も、該水位に達するまでは乙は甲の要求により西天竜用水取入口を開放するものとす
第三条 第一条の工事は乙の負担とす
第四条 本工事完成後にあらざれば、乙は天竜川よりその導水路の通水をなさざるものとす
第五条 本工事完成後二十箇年以内に於て、破壊したる時は乙の費用を以てこれを修理す
第六条 本工事施行の結果、維持管理は甲の責任とす、万一破壊の原因が甲の故意に出でたる時は復旧の費用は乙これを負担せず
第七条 本工事は耕地整理組合を設立しこれを行う
第八条 耕地整理組合により本工事施行の結果、県より補助金ありたる時は乙の収得とす

というものである。ここでいう甲は東天竜であり、乙は西天竜耕地整理組合である。『東天竜』の中でも注目しているものが第一条と二条である。一条に則って西天竜では東天竜の補償工事を行った。しかし問題なのは二条の方で、いずれ灌漑の始まった時点では、どちらも引けない事情であって、協定通りにはいかなかったのである。「名物水騒動爆発」という見出しが踊った昭和12年6月5日の信濃毎日新聞には、岡谷警察署員が西天竜取水堰を固めて不穏な動きに対して警戒している写真が掲載されている。西天竜が出来て以降、東天竜にとっては闘争が延々と続くことになる。『東天龍』を開くとそのほとんどが西天竜から始まった水争いで占められる。東天竜の要求は最終的には溜池建設というところに行き着くことになる。「荒神山温水溜池誕生」には、何年にも渡った県当局とのやり取りが記録されている。荒神山は辰野町においては現在観光ゾーンとして認識されている。もちろんその中心にあるのがここで取り上げるため池であって、その名を「たつの海」と言う。西天竜によって水不足が悪化したことに対してその西天竜が発電をし、さらにはその発電は県の電気部という所管だったことが、要求の矛先は県という形になっていった。昭和39年ころから盛んに県に対してため池の新設の要求が始まる。昭和41年5月16日に辰野町長室で行われた東天竜水利権特別対策委員会において、地方事務所の耕地課長は「溜池に重点を入れてもいい」と発言している。また同年9月30日、地方公共企業と観光開発についての相沢企業局長が講演を終えた後、相沢氏は「西天竜だけスクスクと育っているのはまずい。東天竜川も安心して貰える方法はないかと当初から考えている」と発言した。このころからため池がこの闘争の終着点であるという雰囲気は関係者の中にあったのではないだろうか。丘陵地の高台に造れとは言うものの、水が溜まらなかったらもともこもないわけで、県が躊躇したやり取りがしばらく続く。それでも結局この高台にため池が造成されることになった。竣工したのは昭和45年のことである。完成したたつの海の端に「東天龍」という碑が建っている。たつの海創設を記念して建てられたもので背面にその経緯が刻まれている。そこにも必然的に「西天竜」が登場する。もめごとを納めるために造られた新たな造成物は、今観光の中心として水をたたえている。今ではこのため池の水が灌漑のために有効活用されているとは言いがたい面もあるが、その歴史はこの地域の人たちのこころの奥底に刻まれている。

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「西天竜」との関わりをはずせない歴史

2010-06-28 12:38:19 | 西天竜

 諏訪湖の氾濫は容易には片付けられないほどさまざまなことが関わりあっていた。昭和初期の新聞記事を見たとき、西天竜の取水ゲートができたことに対しての諏訪湖側の抗議が何度となく登場する。取水ゲートによって水位が上昇し、氾濫を拡大しているというのがその主旨なのだが、いっぽうではゲートを下げれば取水量に影響するわけでどちらも死活問題ということになる。こうしたものの他、漁業関係者も取水ゲートによる影響を多く訴えていた。嘉永2年に願い出た伝兵衛堰の計画は現在の西天竜の取水をしているのと同じ川岸から取水するというものだった。「中筋一帯の故障になる」ということで願いは聞き取られなかったわけであるが、やはり諏訪湖への影響というものが懸念されていたわけである。大正8年にようやく認可されたものの諏訪湖地域の住民は天竜川を堰き止めるということに対して激しく反対したが、県は認可を出してしまった。大正12年4月堰堤工事の認可取消要求が諏訪の住民から内務大臣と農商務大臣宛に出されたものの、昭和3年に県が地元に説明した内容は、上流側へは「川岸村が承諾したから諸君も承諾してほしい」というもので、いっぽう川岸村には「上流が納得したのだから諸君も承諾を」というものだった(北原優美『諏訪湖氾濫の社会史』天竜川上流工事事務所)という。後に完成後に激しい争いが起きた背景には、長年の諏訪湖の氾濫に対しての住民の歴史もあったが、そうした西天竜堰を新設する際の経緯も大きな要因となっていたたわけである。

 では天竜川の源である釜口の水門を撤去すればよいという簡単なものではなかったわけで、そこには漁業で生計を営んでいる人たちとの争いにもなるわけで、洪水時は水位を下げたいが、常時は水位を下げたくないというさまざまな意図が絡んでいたわけである。ことそれが釜口水門から5キロほど下流にある西天竜堰が影響しているとは必ずしも言えなかったわけで、こうした争いを収めるべく新たな釜口水門の建設が持ち上がっていったわけだが、いずれにしても諏訪湖の水害対策は今も完全なものとはなっていない。なぜならば毎秒600トン放流可能と言われながら、実際には放流すると下流域に氾濫を招く。ようは天竜川そのものにその受容がないのである。現在の西天竜堰は600トン放流に対応されたものと言うが、その機能を100%利用したことは現在の堰を建設してすでに30年以上経過しているものの一度もないのである。

 諏訪湖の氾濫史を紐解くと必ず登場する「西天竜」であるが、このほかにも同様に「西天竜」を扱わないと歴史が語れないという組織はいろいろある。天竜川漁協は上伊那地域を管轄している漁協である。この漁協にとっても「西天竜」は大きな障壁となって歴史を刻んできたはず。取水によって河川水量が減少すれば魚類に影響がでる。諏訪湖において最低水位を引き上げろと主張する漁協関係者に対して、最高水位を下げろと主張する農民側が譲らなかったのは昭和10年に完成した釜口水門の水位設定の議論のときだった。相反する意見をどう調整するかが、また新たな施設建設へ向かう発端になるのも、行政の歴史である。昭和51年に現在の西天竜堰が完成し、その竣工式が執り行われた際に、天竜川漁協は要請行動をとった。その内容は新たに施設を更新することは認めるが、その取水量などに条件を出していた。ところがその条件に対して回答もないままに堰は完成し、竣工式が行われるということに対しての行動だったのである。天竜川漁協にとっても「西天竜」の歴史ははずすことのできないものなのである。

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続「第二西天」

2010-06-22 12:17:29 | 西天竜

 「第二西天」より

 そもそも伝兵衛井が西天になりうる存在であったことはよく知られている。現在の西天と同じ辺りからの取水が許されていたならば、伝兵衛井が第一西天であり、現在の西天は第二西天たる存在であったかもしれない。領地を越えたところからの取水が叶わなかったために、結局伝兵衛井は小規模なものとなってしまったが、企画草案は西天といっても差し支えなかっただろう。いずれにしても段丘上の水の乏しい扇状地に「水を揚げたい」という期待は古い時代からあったもので、そして西天が具体的になって造成された以降にも、さらに上段に水を揚げたいという発想は継続していたようである。『西天龍』(北部教員会西天龍調査委員会編/昭和29年)においても第二西天の案をいくつかとりあげている。「(1)釜口水門附近より直接隧道によって北之沢(北大出)に導水し北大出以南伊那町に通ずる現在の西天以南に灌漑するという試案。(2)羽場の辺から東天龍の水を電力によって北大出まで押し上げる方法。(3)又は隧道によって新たに釜口水門附近から朝日村の荒神山附近まで導水し、その先を電力によって北大出迄押上げる方法等種々計画されている様であるが」と言うように、ちまたではそんな話が聞こえていたようである。どの案も天竜川の水を現在の辰野町南端あたりで現在の西天より数十メートル高い位置に導水するという案であるが、実は現在の西天の取水位置の高さは、諏訪湖の釜口水門の排水高と比較してそれほど差はなく、ようは揚水する以外には天竜川の水の有効利用は効かないということは判然としている。

 すでにちまたに聞こえていた第二西天はこの後20年ほど経過した昭和47年に建設が始まる。すでに「第二西天」という呼称を使う人はいなかっただろうが、これが伊那西部開発と言われる国営の水利事業である。箕輪町木下や南箕輪村北殿にその取水口があり、同田畑の機場から約300メートル上の伊那市羽広まで揚水するという大規模な構想(辰野町北大出に揚水するよりはるかに広域で水の利用ができる)であって、その受益は3287ヘクタールというものであった。取水源は段丘崖に出でた湧水や、農業用水の反復利用というもので、簡単に言えば西天竜で排水された水が再び西天竜より上段に揚げられて利用されるという構想そのものは水の有効利用という願ってもないものではあった。しかし、大規模な施設を設ければその維持管理に金がかかるわけで、ふつうに河川から取水して自然の力で導水することを思えば“高価な水”と言われてしまう。したがってその受益エリアの誰もが賛成というわけにはいかなかっただろうし、水の利用も計画なりの実益を得ているところまでいったとはなかなか言えないのが現状なのかもしれない。

 この伊那西部開発について「開けゆく伊那西部」と題して、上伊那農業高等学校上農祭特別企画委員会が昭和54年の『伊那路』1月号に発表をしている。その中に「受益農家の西部開発に対する意向調査結果」というものがある。自らアンケートを採ったものかどうか、その経緯などについては触れられていないが、この意向調査結果は大変興味深いものを示している。計画当初の賛否については専業農家で賛成50%、兼業農家77.3%。反対は前者16.7%、後者4.6%。あとは「その他」という回答のようである。昭和47年に開始した事業であるが、計画そのものはそれ以前よりはじまっていたもの。生産調整が始まったのが昭和46年であるから、計画時はまだ生産調整以前だったわけである。ところが生産調整が始まったため、計画変更を余儀なくされた。その変更後の数字は次のようである。賛成は前者50%とまったく変わらないものの、後者は27.3%、反対は前者33.3%、後者50%と明らかに賛成から反対に変わっている。この理由はそもそも開田ができるはずだったものができなくなったというところにあるだろう。収益性が高いという面では米よりも野菜や花卉といったものが当然優位なモノの、兼業農家がそのほとんどになりつつある中では、米が最も兼業に向いていることは言うまでもなく、収益性が高いといっても米と同じような労力で同じ面積を耕作していくことは不可能なこと。ようは生産調整によって何が生じるかといえば、耕作できない土地が増えていくということになる。古くより望まれていた上段への導水は、「生産調整」という現実の中で重い荷物を背負うことになっているのである。

 かつて第二西天に期待していた人たちは既に亡くなっている人たちも多いのだろうが、果たして現状を見てどう映っていることだろう。

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「第二西天」

2010-06-21 12:31:04 | 西天竜

 『西天龍』(北部教員会西天龍調査委員会編/昭和29年)の「開発に関する経済問題」では西天竜開発時における経済的背景を触れるとともに、開田事業完了後の精算状況が記されている。そして将来はどうかという展望においては、「裏作」がなかなか進展しない状況について漏水などによる水不足がいまだ経営に影響しているというのだ。それを解消するためにも
 1.幹線道水路の完全修理による漏水防止
 2.支線土型水路のコンクリート化
 3.途中から電力によって水をあげる(電力は冬期の水を利用して発電する)
 4.第二西天が実現すればそこから水を融通補給を受ける
といった方策が掲げられている。この本は教員が作り上げたものであるが、その指摘は後の歴史を見ればまったく的を得たものということになっただろうか。掲げられた四つの策は、着実に実行されてきた。幹線道水路が全面的に更新改修が始まったのは昭和52年からのこと。支線水路がコンクリート化され始めるのも昭和30年代のことであるからこの本が出てまもなくのこと。電力によって水をあげるという意図が具体的にどういうものであったかこの文面からは察知できないが、やはり昭和30年代に最下流の伊那市小沢において揚水によって新たな開田がなった。そして4番目のこの時代に「第二西天」と言われていたものは、昭和47より始まった国営伊那西部水利事業として結実した。「地区外」「受益」という農水のキーワードを当てはめると融通補給を受けるというわけにはいかなかったが、かつての水利権の既得権益が絡んでか、伊那西部の用水がまったく西天竜のエリアに入ってこないわけではない。もちろん意図するものにはほど遠いかもしれないが、そもそも西天竜に水田を持つ人が、伊那西部に畑を持つ人も多い。西天竜の開発によって畑を失ったものの、伊那西部において畑を得たというのがこの二つの地域をセットにした総合的な観点と言えるだろうか。しかし、現実的には昭和46年に生産調整が始まり、水田であっても米を作れなくなったのは、総合的な目論見が破綻する始まりだったかもしれない。いや、そうではない。そもそも第二西天も水田が欲しいと目論んだもの。たまたま事業は上段(第二西天)畑地帯、下段(西天)水田地帯という分担になったが、やはり「水田が欲しい」人はまだまだたくさんいたのである。

 第二西天の話はこの『西天龍』が編まれていた際にはかなり現実的なものだったのだろうか。そもそも西天竜の取水口が意図通りのものだったら現在の位置にして40メートルは西に上がったという話は「『西天龍』の回顧談から①」でした。多くの開田をしたいのならより高い位置で取水するにこしたことはない。それを補う意味でも西天竜の水をさらに揚水するという話が持ち上がるのだろうが、できてしまった水路を拡幅して水量を増やすということも容易ではなかったのだろう。もちろん時代が流れ、農地解放される以前(西天竜が造られた時代)と以降では権利者意識が大きく異なっていただろう。安定化している区域と、そうでない新たな開発区域をセットで何かをしようという目論見は、なかなかうまくはいかないもの。はたして持ち上がってきた第二西天に対して、西天竜の人々はどう見ていたのだろうか。同章では「第二西天の開発と開拓精神」を最後に取り上げている。そこで「裏作緩和に大きく力を得ることであろう」と述べ、「先輩の成就した偉業の不撓の開拓精神を継承すること」「前計画にしても当時の金にして僅か百萬円を計上すれば現に掘りつつある川岸より辰野に抜ける隧道工事も当時併せて完成されたともいわれている如く眼前の小利に捉われることなく遠大な視野のもとに計画すること」といった指摘をしている。とくに単作化することを危惧しているわけであるが、実は現在の農業はその単作化にみごとにはまってしまったわけである。

続く

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西天竜の湧水

2010-06-15 12:39:43 | 西天竜

 『西天龍』(昭和29年 北部教育会西天龍調査研究委員会編集)の第八章に「水路敷設後の地理的変化」というものがある。西天竜幹線水路が完成したことによって地理的にどういう変化が起きたかということに焦点をあてている。ひとつは土地利用の変化であり、水田がこの開削によって一気に増加した。このことについては「『西天龍』の回顧談から④」で触れた通りである。二つ目として開拓が進んで人口が増え、新たな集落が生まれたことで、これについても「『西天龍』の回顧談から②」で触れた。三つ目として「かんがい水の浸透に基づく地下水の増加と其の利用」があげられている。扇状地面に導水された用水は、当然の如く浸透水も多かった。このことについて「伏流は土地利用の上にも、地域住民の生活にも色々の影響を与えることになった」といい、その影響として次のようなものをあげている。「伏流の増加に伴って多湿となり、結果、冷湿田が発生した。又一方畑地を止むなく水田に変更した処は沿線中所々散見でできる」「水不足が補われて好結果を得た水田や、用水(防(落字)、炊事用水)になやんでいた地域住民が地下水増加に伴って、そのなやみが解消したさえある」といったものでとくに恩恵を受けたものとしてわさび田の発達を取り上げている。開拓前のデータは無いものの、開拓後の昭和28年には中箕輪町7反8畝、南箕輪村1町9反、伊那町1町余のわさび田が耕作されている。昭和初年に穂高のわさび栽培業者がこの湧水に着目して直接栽培に手を出した時期があったというから、ちょうどこの西天竜の開削時と整合する。風土の違いで撤退する業者もあったというが、一時わさびが盛んになった時代とも言える。わさび田はかつてほどではなくなったものの、現在でも段丘崖の湧水を利用して各所にその姿を見ることができる。国道153号線沿いでも見受けるし、段丘崖に沿って走るJR飯田線の車窓からもじゅうぶん確認することができる。今でも静岡や安曇野のわさびとの名で市場に出回るものがあるという(『南箕輪村誌』)。

 おおかたの捉え方でいけば西天竜の開削は恩恵を与えた部分が多かったということになるが、昭和7年7月7日の信濃毎日新聞には次ぎのような記事がある。「連日の干天にいよいよ旱魃を拡大している反面に於て一段下った電車沿線の中箕輪村木下、松島、南箕輪村久保区等では床下や家の傍らに開田の浸透した水が湧出してじめじめし非常に悩まされて居り県道の傍らにある小川も氾濫して木下区等では県道を押し流すので伊那土木出張所では排水工事を行うよう再三組合当局に交渉している」というもの。できた当初はかなりの湧水が段丘崖に湧出したようで、これらの補償対策費が嵩んだとも言われる。伊那富(現辰野町)から松島まで導水されていた新井が無関係なのに西天竜耕地整理組合によって整備されたのも、こうした湧水による水路の増水などが周辺に影響したためだった。

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