Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

〝山の神〟再考 ①

2025-01-09 23:06:50 | 民俗学

 わたしは1993年の『信濃』45巻1号(信濃史学会)へ「コトの神の周辺」を記した。コトの神の祭りが行われるコト八日について触れたもので、その中でコト八日と山の神とのかかわりについて次のように書いた。

  五 山の神とのかかわり
 山の神の祭りがコト八日の近くに行われることもよく知られており、県内では下伊那郡南部において旧暦二月七日を祭日としている所が多い。山口貞夫は早くより「二月八日及び東国の十二月八日は、元々山の神の去来する日であった」また「此神が片目であると云ふ思想があった為に信仰の下落に伴って一目小僧に堕し、神を迎へる為に静粛を守った人々は悪霊を怖れて蟄するに至った。神の招代として竿頭に揚げた目龍は一目小僧と日数を争ふ道具となり終り、別に臭気をかがせて邪気を払ふ行事までも付加されるに至った」という指摘(37)をしており、その後の山の神とコトの神とのかかわりを説く論文の参考とされてきた。この山の神の祭日には山へ入ることを忌み嫌った。

 事例21 下伊那郡松川町新井 十一月七日は山の神様が出雲へ出発する日なので、山へ行ってはいけないといい、半日仕事を休んだ。(38)

 事例22 上伊那郡長谷村市野瀬 コトネンブツといってかね(鉦)をたたいて念仏をあげ、団子をまいて一杯飲んで祝った。各家では餅をつく。この日は木がはらむときだから木を伐ってはいけな い、伐るとけがをするといわれた。炭焼きの止めがまに行くのにも枝一本でも折らぬように気をつけた。(39)

 事例23 伊那市小沢 餅をつく。嫁の里では新夫婦を招いてごちそうをする。「春のオコトにゃ子をよんで、冬のオコトにゃ親をよべ」といわれている。この日は針供養をし針仕事を休む。山の木を伐ってはいけないともいう。(40)

 事例21のように山の神の祭日に入山を禁止する事例は多いが、コト八日においても事例22や23のように山の木を伐ってはいけないという事例が諏訪から上伊那にかけて多い。これらは山の神の禁忌とコト八日の禁忌が混同された事例なのかもしれないが、事例22、23の二つの地区では別に山の神の祭日が定められている。したがってコト八日に付加されたものといえ、山の神がこの日にかかわっていることになる。また注目される点は、事例23のように嫁の里帰りが行われることである。上伊那郡にこの事例が見られるが、この場合「山へ行って木を伐るとけがをする」という禁忌が付加される場合が多い。山の神が産の神であるということは各地で知られている。

 事例24 上伊那郡高遠町東高遠 出産が始まると部屋の隅へ立てかけたわら束に、「山の神ここへ座ってくれ、ウブメシ安産で生ませてくれ」と頼んだ。出産すると四つの膳を供えて「無事出産したからお帰りください、御苦労さん」と拝んで山の神を帰した。(41)

 このように産の神として山の神は迎えられ、目的が達成されると送られている。東北や関東でも妊婦が産気づいてもなかなか子どもが生まれないとき、馬を引いて山の神を迎えに行く行事がある(42)という。これらの事例から新夫婦が嫁の里へ帰るコト八日は、山の木がはらむ日であり、産の神である山の神の祭日であったともいえよう。
 また先の事例9で紹介したように風邪の神を送る場合に、紙に馬という字を一二書き、それを辻などに捨てる方法がとられている。この一二の数については地元では特に意味を理解していないが、山の神=一二様からくる一二ではないかとも考えられる。山の神にはこの一二の数がつきまとい、それは一年の月数とされ、山の神が農事に深い関係があるからだといわれている。
 ところで岐阜県不破郡音墓村では、山の神の祭日(旧正月九日)に未婚の娘をもつ家が宿となり、若衆が山から松の木を伐ってきて、長さ三尺ほどの男根のものを四本作っている。そしてそれらをその年、嫁入りのあった家へもち込み、それから行列を作って歌をうたいながら山の神の祭場へ行って供物を供えているという(43)。この行事の内容は道祖神の祭事にもよく見られる事例であり、先に紹介したコト八日におけるワラウマヒキも道祖神とのかかわりが強く、また産の神や厄神としての要素も道祖神はもっている。こう考えてくると事例3のコトノカミオクリは、風邪の神送りの集団化したものであり、男女二神を並祀した神輿をムラ境に送ることにより厄神を送り出している。送り出されたコトの神は山の神や道祖神の要素を含んでいるのではないかと推察できる。

というものである。ここでいう事例9及び事例3は次のような事例である。

事例9 下伊那郡松川町 こと念仏でとまった(二月六日)夜一二時ごろする。
 紙に馬という字を一二書き、それを封筒の中に入れ、よその部落の四つ辻に持って行って捨て、後を振り向かないようにして帰ってくる。そうすると一年中部落に悪いやまいがはいらなかった。(22)

事例3 飯田市千代芋平 コトノカミオクリは飯田市聾者区の千代、竜江、上久堅と送り継がれる行事で二一月八日千代の野池と芋平から出発する。特に芋平から出発するのはみこしが造られる。(中略)始めに藁で丸く型が作られ桧の薬をさして屋根形にし、紅白の切り紙で美しく飾り、竹を二本通して前後でさげる位いの大きさにする。みこしの中には藁製のオトコガミ(男神)、オソナガミ(女神)が安置される。また「千早振る二月八日は吉日で、事の神をば送りこそする」と大書された紙製の職旗二本を作る。十時前後にいよいよ出発する。みこしの後には各家から出された笹竹を持った人達が続く。ドカンドカンと鉄砲が鴨され、上久堅境の沼塩の川まで送る。帰りには絶体に後を振り向かないこと、もし振り向くと送り出した悪病神が付いてくるといわれているので急いで帰る。
 笹竹に結ぶ紙は、中折りの四つ切りの大きさに「風の神」「馬と申」などと書く。これには風邪が馬の鞍に形づくられたみこしに乗って申が引いていくのだともいわれている。またこの笹竹には、ぼんのくぼの髪の毛とお米を入れ水引で結えたものも結びつける。このような竹は、各家で家中の部屋を「風の神様どうかこの竹にのり移って下さい」と唱えながら清め、道端に出して置くと行列が集めて次々と部落を引き継いで上久堅柏原の一本松の喬木村側まで送って行く。(9)

 これらは山の神の祭日に着目してコト八日との関係性を考えたものだが、この中で「コト八日においても事例22や23のように山の木を伐ってはいけないという事例が諏訪から上伊那にかけて多い」と記しているように上伊那における山の神信仰は県内でも少し変わっている印象がある。ここで山の神について上伊那を中心に考えてみることとする。

 なお、引用の中の註については下記のような内容である。

 9 上久堅村誌編纂委員会『上久堅村誌』平成四年 七二七頁
19 長野県史刊行会『長野県史民俗編』第二巻南信地方(二) 昭和六三年 八四五頁
22 松川町教育委員会『松川町の年中行事』昭和四六年 六二頁
37 山口貞夫「十二月八目と二月八日」 大島建彦編『コト八日』所収 岩崎美術社一九八九年 二九頁
38 註19と同じ 七六八頁
39 註19と同じ 六二三頁
40 註19と同じ 六二四頁
41 註19と同じ 二三五頁
42 吉野裕子『山の神』 人文書院一九八九年 九一頁
43 宮田登『民俗宗教論の課題』 未来社一九七七年 二一八頁

続く

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****