消された「」より
喜多村正氏は「」という呼称の発展の要因として「町村の下位組織」化をあげている(『山陰民俗』15/山陰民俗学会)。日露戦争後の地方の町村は、国政委任事務費の重圧で財政難に陥り、「町村の出費を抑えるために各種の行政補助組織を単位につくらせ、町村の負担を肩代わりさせる施策がとられた」と言う。今も行政の末端として機能させられている自治組織、いわゆる「」が「」発展の中で位置づけられ、また「」という名を広めてきたとも言えるのだろう。今もそうであるが、この組織が機能すれば、自治体の事務が省略できることは確かである。名目上は地域の協同であっても、実のところそこからこぼれる人たちがいると自治体にとっては損益にもなるわけで、自治組織加入率のアップはそもそもが自治体の経費節減になり、強いては住民への還元にもなるというのが、地域自治の仕組みとも言えるが、果たしてその比率がそのまま還元されるかどうかは別の問題である。
明治後半のそうした展開の前段に町村合併というものもあった。喜多村氏は「「市制・町村制」の制定は、同時にという語が村落共同体という意味で用いられる契機にもなっていた」と述べている。この法令制定にともなって全国で明治期最大の合併が進んだわけである。実は町村数が全国でも多いと言われる長野県の現在の村をみると、この時の合併のまま現在に至っているところか意外と多い。例えば下伊那郡では明治22年に大河原村と鹿塩村が合併して大鹿村が、同年睦沢村と陽皐村が合併して下条村が、木曽郡では同年殿村と長野村、須原村、野尻村の4村が合併して大桑村が誕生している。開田村、旧楢川村、木祖村、旧本城村など探すとけっこう22年に誕生して平成の合併まで経過した村が目立つ。こうした村落共同体を示す言葉としての「」は、一般的な「」に対してそうではない「」を「特殊」という区分けをすることになっていく。わたしも知らなかったが、名アナウンサーとして知られている玉置宏が、昭和48年7月19日のフジテレビにおいて「芸能界ってのはやはり特殊ですよ」と発言したのは後に問題を大きくしていった。普通に対して特殊は、明かに両者を隔てて捉えている。同じでも両者は明らかに違うという意識は、逆に同じ「」ではあってはならないという意識にも繋がる。ようは「」という言葉で村落共同体と被差別が同じ土俵にあるならともかく、それを引き離すがごとく「」では被差別と同じだからという理由で「」を消していったとしたら、それはさらなる「」への偏見となる。あくまでもその理由が「」という呼称では差別的だというのなら、そんな意識はお構いなしのことではないだろうか。にもかかわらず、わたしたち社会は「」を意識し、故に自らの住む「」は「」ではないとばかりにその名を消していったのである。
喜多村氏は文学の上での修正についても触れている。例えば島崎藤村の『破戒』では、明治39年に刊行された際の初版本では、「の語は見られるが五、六カ所にすぎない。しかも、「のへ御出になりますと」のように」あくまでも村落共同体を示す意味での「」であったと言う。ところが再刊本(昭和14年)においては、全巻50カ所以上に及んで「」という表現に書き換えられた。とかというそのものを指し示すような表現を辞めて「」と書き換えられたわけである。ここに、被差別=「」という意味に変えられているというわけだ。後にさらにそれは「」から「集落」とか「村落」といった呼称に明確化というか曖昧化されていくわけである。文学の上ではきっと表現が変わることでそもそもの意味合いが無くなるという危惧もあっただろう。しかしながら社会的配慮という面で機械的な修正を余儀なくされていく。喜多村氏が最後にこんな表現をしている。「はほとんど機械的に村落に書き換えられた。そのため例えば、「村落という小世界をぬけ出すことはたちまち貧窮に身をさらすことに通じているのだ。と書き換えられているが、この村落という表現がリアリティを持つ地方は日本のどこにも存在しないだろう」と。
「」はさまざまな形で呼称から消えていった。村落の呼称について喜多村氏が鳥取県立博物館が平成19年に行なったアンケートの結果を引用しているが、それによると、「自分たちの住んでいるムラを何と呼んでいるか」という問いに対して、いまだ「」という呼称は一般的である。いずれその呼称は消えていくと予測しているが、その呼称を早い段階で禁止したメディアに比較すれば、かなりの時代の誤差を生じている。鳥取県の例によれば、に変わるものとして「集落」「自治会」「区」「ジゲ」「ムラ」が回答に上っているが、どれも「」に比較すれば希少な例である。ちなみに長野県内の伊那谷中部では、飯島町で「コーチ(耕地)」という特異な呼称を使っている。これは古くに使われていた呼称に戻ったようなものなのだが、わたしの住む地域ではつい最近まで「」を採用していて、今も言葉として「」がでることは珍しくない。ちなみに今は基本的には「自治会」という呼称で統一されているが、このあたりでは「」という単語で『破壊』の再刊本のような被差別を指したような認識はまったくない。だからこそつい最近まで使われていたのだろうが、逆にそれを意識させる結果を導く。認識の低いままの単純な単語の利用禁止は、むしろ問題を内包する結果にも繋がるというもの。それほど長い歴史のある「」ではないが、その利用の歴史はあまりにもわたしたちの内在しているこころの動きをあからさまにしている事例といえるのかもしれない。
喜多村正氏は「」という呼称の発展の要因として「町村の下位組織」化をあげている(『山陰民俗』15/山陰民俗学会)。日露戦争後の地方の町村は、国政委任事務費の重圧で財政難に陥り、「町村の出費を抑えるために各種の行政補助組織を単位につくらせ、町村の負担を肩代わりさせる施策がとられた」と言う。今も行政の末端として機能させられている自治組織、いわゆる「」が「」発展の中で位置づけられ、また「」という名を広めてきたとも言えるのだろう。今もそうであるが、この組織が機能すれば、自治体の事務が省略できることは確かである。名目上は地域の協同であっても、実のところそこからこぼれる人たちがいると自治体にとっては損益にもなるわけで、自治組織加入率のアップはそもそもが自治体の経費節減になり、強いては住民への還元にもなるというのが、地域自治の仕組みとも言えるが、果たしてその比率がそのまま還元されるかどうかは別の問題である。
明治後半のそうした展開の前段に町村合併というものもあった。喜多村氏は「「市制・町村制」の制定は、同時にという語が村落共同体という意味で用いられる契機にもなっていた」と述べている。この法令制定にともなって全国で明治期最大の合併が進んだわけである。実は町村数が全国でも多いと言われる長野県の現在の村をみると、この時の合併のまま現在に至っているところか意外と多い。例えば下伊那郡では明治22年に大河原村と鹿塩村が合併して大鹿村が、同年睦沢村と陽皐村が合併して下条村が、木曽郡では同年殿村と長野村、須原村、野尻村の4村が合併して大桑村が誕生している。開田村、旧楢川村、木祖村、旧本城村など探すとけっこう22年に誕生して平成の合併まで経過した村が目立つ。こうした村落共同体を示す言葉としての「」は、一般的な「」に対してそうではない「」を「特殊」という区分けをすることになっていく。わたしも知らなかったが、名アナウンサーとして知られている玉置宏が、昭和48年7月19日のフジテレビにおいて「芸能界ってのはやはり特殊ですよ」と発言したのは後に問題を大きくしていった。普通に対して特殊は、明かに両者を隔てて捉えている。同じでも両者は明らかに違うという意識は、逆に同じ「」ではあってはならないという意識にも繋がる。ようは「」という言葉で村落共同体と被差別が同じ土俵にあるならともかく、それを引き離すがごとく「」では被差別と同じだからという理由で「」を消していったとしたら、それはさらなる「」への偏見となる。あくまでもその理由が「」という呼称では差別的だというのなら、そんな意識はお構いなしのことではないだろうか。にもかかわらず、わたしたち社会は「」を意識し、故に自らの住む「」は「」ではないとばかりにその名を消していったのである。
喜多村氏は文学の上での修正についても触れている。例えば島崎藤村の『破戒』では、明治39年に刊行された際の初版本では、「の語は見られるが五、六カ所にすぎない。しかも、「のへ御出になりますと」のように」あくまでも村落共同体を示す意味での「」であったと言う。ところが再刊本(昭和14年)においては、全巻50カ所以上に及んで「」という表現に書き換えられた。とかというそのものを指し示すような表現を辞めて「」と書き換えられたわけである。ここに、被差別=「」という意味に変えられているというわけだ。後にさらにそれは「」から「集落」とか「村落」といった呼称に明確化というか曖昧化されていくわけである。文学の上ではきっと表現が変わることでそもそもの意味合いが無くなるという危惧もあっただろう。しかしながら社会的配慮という面で機械的な修正を余儀なくされていく。喜多村氏が最後にこんな表現をしている。「はほとんど機械的に村落に書き換えられた。そのため例えば、「村落という小世界をぬけ出すことはたちまち貧窮に身をさらすことに通じているのだ。と書き換えられているが、この村落という表現がリアリティを持つ地方は日本のどこにも存在しないだろう」と。
「」はさまざまな形で呼称から消えていった。村落の呼称について喜多村氏が鳥取県立博物館が平成19年に行なったアンケートの結果を引用しているが、それによると、「自分たちの住んでいるムラを何と呼んでいるか」という問いに対して、いまだ「」という呼称は一般的である。いずれその呼称は消えていくと予測しているが、その呼称を早い段階で禁止したメディアに比較すれば、かなりの時代の誤差を生じている。鳥取県の例によれば、に変わるものとして「集落」「自治会」「区」「ジゲ」「ムラ」が回答に上っているが、どれも「」に比較すれば希少な例である。ちなみに長野県内の伊那谷中部では、飯島町で「コーチ(耕地)」という特異な呼称を使っている。これは古くに使われていた呼称に戻ったようなものなのだが、わたしの住む地域ではつい最近まで「」を採用していて、今も言葉として「」がでることは珍しくない。ちなみに今は基本的には「自治会」という呼称で統一されているが、このあたりでは「」という単語で『破壊』の再刊本のような被差別を指したような認識はまったくない。だからこそつい最近まで使われていたのだろうが、逆にそれを意識させる結果を導く。認識の低いままの単純な単語の利用禁止は、むしろ問題を内包する結果にも繋がるというもの。それほど長い歴史のある「」ではないが、その利用の歴史はあまりにもわたしたちの内在しているこころの動きをあからさまにしている事例といえるのかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます