今回「長野県民俗地図」を作成するにあたって整理していて違和感とでも言うのか「何故」と思うことが多々うかんだので、ここにメモを記しておくことにする。
『長野県史民俗編』は第5巻まてあり、第1巻は東信地方を対象にしたもので3分冊刊行されている。同様に南信が第2巻、中信が第3巻、北信が第4巻と構成されていて、それぞれに3冊あるため、計12冊刊行されている。そこに加えて第5巻が「総説」とされていて、簡単に言えば前4巻が地域ごとの資料のようなもの、最後の5巻はまさに「総説」であって全県を対象にしたまとめとなっている。「総説」も2冊刊行されていて、1冊目は前4巻と項目がほぼ整合していて「まとめ」のようなもの、2冊目は特徴あるものに焦点をあてたもので論文のようなもの、とも言えるだろうか。したがって読んで楽しいのは最後の総説Ⅱだとわたしは思う。
さて、前4巻は調査地点ごとのデータが羅列されているスタイルで、項目ごと前書きとして「概説」のようなものが記されている。ようは基本スタイルは全14冊刊行された本の、ほとんどは調査項目に対する調査地ごとのデータをまとめた本であるといえよう。しかしその調査地について①どのように選定されたか、どのような調査がされたか、というようなことは詳細には触れられていない。「知る人ぞ知る」と言う感じで、このあたりはこの書に真剣に取り組もうとすると、最初に疑問のわく点なのだろう。先ごろ「長野県民俗地図作成に向けて(標高1000メートル)」において図2として農業振興地域に調査地点を落とした図を示した。その際にも触れた通り、調査集落はほぼ農業振興地域に記号が落ちている。そうでない記号はほとんど都市計画区域の用途区域である。用途区域は農振区域にほぼ囲まれているようなエリアなので、山の中には存在しない。したがって農振エリアとして塗られたエリア内の分布マークで、そのエリア内での分布状況がおおよそ理解できる。県内の調査地点の総数は424。内北信が137、東信が88、南信が103、中信が96となる。ようは北信の調査地点数が突出していることがわかる。ちなみに各地域の面積比でいけば、中信が最も広く、北信は最も狭いと捉えられるが…。前述した図2でもわかるように、記号が北信に密集していることは見た目でもよくわかるわけで、人口が少なく山の中である木曽などはかなり疎であり、南信はまんべんなく「点々」としていることがわかる(下伊那南部は明らかに木曽と同じような傾向がみられる)。「長野県民俗地図作成に向けて(行政枠)」でも触れた通り、当時の市町村には最低1か所の調査地点を、という意識が働いていたかどうかはわたしにもわからないことであるが、実際のところ市町村単位で1箇所のみというところがあることから、そうした視点はあったと推定される。その上でどのように調査地点は選定されたのか、繰り返すが『長野県史民俗編』にそのあたりは触れられていない。
続く
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