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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

あらためて『長野県史民俗編』を紐解いてみて 中編

2022-11-13 23:44:03 | 民俗学

あらためて『長野県史民俗編』を紐解いてみて 前編より

 前編でも触れた通り、北信域の地点が狭いわりに多いということは、それだけで北信が目立つことになる。もっといえば、松本~北佐久あたりから北半分に集中しているとも言える。これを南北格差などとは言わないが、地点記号の重なりは北半分に集中することになり、今回の民俗地図化する際にも厄介な問題を孕むかもしれない。そもそも民俗地地図は抽象化されて何かを見出そうとするものになるから「小さいこと」かもしれないが、とはいえ、地点が密のところと疎のところでは印象に影響することが絶対ないというわけではない。

 さて、この調査地についてであるが、4ブロックの第1巻(日々の生活)に調査地の概要が記されている。そこには調査集落の世帯数と人口が記されており、集落の大きさには大きな違いがある。この集落の捉え方はどうなのか、というあたりは気になるところ。例えば飯島町石曽根という集落は世帯数50戸、人口377人と記されている。いっぽう中川村大草は世帯数507戸、人口2028人。松川町上片桐は世帯数817戸、人口3316人である。後者2例の大草と上片桐は、かつての大字単位であり、前者の石曽根は字単位である。ようはかつての「村」と「集落」という違いがある。これはエリアの広さに繋がるもので、極端なことを言えば、行政単位に1か所しかなければ調査地は行政の名称でも良くなるし、あえて小さな集落単位で調査地を選定する理由があるのだろうか、ということになる。したがって「石曽根」という調査地を選定するのなら、「大草」なら「沖町」とか「三共」といった集落が等しいし、「上片桐」なら「諏訪形」とか「「大栢」といった集落が等しくなる。同じ中川村ではもう1地点調査地が選定されており、その調査地は「南田島」が選定されている。南田島は世帯数68戸、人口292人であり、「大草」とは大きな違いがある。調査地をどの程度のエリアに絞るのか、というあたりが、どのように選定され、また括られたのかというところは、ばらつきがあると言える。


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