Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

家構えと表札と、車③

2022-11-12 23:56:32 | ひとから学ぶ

家構えと表札と、車②より

 今でこそ表札を出さなくなっているが、しばらく前に建てられた家には表札というものがあって、家族全員の名前が書き込まれている。先日うかがった家は、建築されたのは昭和50年代くらいだろうか、玄関には表札があって、3人の名前が書き込まれていた。数日の間に2度訪れていて、ご主人が対応されたが、あまり人の気配がしなかったため「独り住まいだろうか」と予測した。訪ねた際にいつも同じ顔が現れるということは、独りということが当たり前に考えられる。うしてその家の家族の様子を予測するのだが、もちろん平日なら仕事に行っていてほかの家族は留守ということも当たり前に考えられる。しかし、例えば高齢者を訪ねた場合、そこで男性が現れれば、その家の主であることは容易に判断できる。そしてその主と表札を比べながら、表札のどの人か定める。その横に女性の名前があれば奥さんだろうし、その横に名前が連なれば子どもの名前だろうと想像する。そして子どもが同居されているのかどうかを判断しながら、家の様子をうかがう。3人が書き込まれていて、子どもらしき3人目の同居が予想されない場合、息子さんは果たして結婚されているのかどうかと想像する。

 このように表札はその家を想像させるに十分な情報である。裏を返せばこの時代にあって表札は、個人情報を掲げているようなものなのかもしれない。しかし、今でも表札見えるところに掲げている例は、けして少なくない。もちろん昔ほど表札が見られることはないが…。

 すでに廃村と化した村に残る廃屋を垣間見た時、どれほど家が朽ち果てようとしていても、表札だけ残っていることもある。そうした表札をうかがいながら、かつてその家に暮らした人々を想像したりする。おそらく無住になる間際には一人か二人程度しか住んでいなかったのだろうが、表札には大勢の名前が連なる。いつの時点に更新されたのかもわからず、そしてそうした光景には表札はけして更新されることのないものなのだと諭されたりする。もしかしたら最も家族が多かった際の家族構成が表札には書きこまれているのかもしれない。常識化もしれないが、一度書き込まれた名前は、よそに住むようになっても、死なない限り消されることはないのかもしれない。こうしてみたとき、家族とはその家に住んでいる者のみに限らず、子どもたち全員を対象にするものなのかもしれない。

 さて、我が家には表札がない。新築した際には「〇〇」と姓だけ表示したものがあっが、劣化して破損してからはそのまま掲げることもしなかった。何も表示がないと郵便屋さんや宅配業者が困るだろうと、妻がポストのところにマジックで「〇〇」と小さく姓を記したものが、今もって残存している。大きな屋敷であったり、塀がめぐらされていたりすると、どこの家がわからないため、周囲の門扉のところに表札を出している家もあるが、もちろんそうしたところに家族の名前など記されている例はない。我が家でも「表札などなくてもよい」という認識でそれが復活することはなかったが、いざ地域役員を引き受けると、「この家で良かったのかどうか」と確信の持てないことがよくある。したがって姓だけではなく、ちゃんと主の名前くらい表示してほしいものなのだが、今のご時世、主だけにあらず、情報が欲しいと思うことは多々ある。家の構えもそうだが、表札をうかがいながらさまざま想像できた時代と異なり、もはやそれすら叶わない家々が、当たり前のうに存在するようになり、懐かしい表札を見ると楽しくなるもの。

続く


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