拝殿前での「舞出し」(令和6年10月13日 午前10時)
「舞出し」後に宮司からお祓いを受ける
出発前に鳥居前において、これから記念撮影
上荒井の家々へ
屋台の内部
戸毎舞「おかざき」
伝播が正確に捉えられている獅子舞の例は少ない。今日明日と宵祭り、本祭りが行われる伊那市荒井神社の祭典に奉納される獅子舞を訪れた。この獅子舞にいては『伊那市のまつり』第1集(平成12年 伊那市教育委員会)に詳しく記述されている。現在の荒井区には伊那市駅があったり、現在も長野県の合同庁舎があったり、またかつては市役所もあったりと、この地域の中心地にあたる。このように中心地になったことで、明治から大正にかけて統一の神社を設けたいという機運が高まった。大正8年から造成が始まり、拝殿が完成したのは昭和5年だったという。当時の青年会が造成や植栽工事に関わったことにより、青年会では昭和8年の祭典に奉納する芸能を検討したという。「全員が参加できる大型獅子舞」をという考えから、飯田市松尾1丁目の獅子舞を伝授したいと申し出たという。快く引き受けてくれたようで、松尾町より師匠5人が訪れ1か月宿泊して特訓を受けたという。そして同年10月1日、2日の例祭奉納にこぎつけたということで、獅子舞発生の謂れがはっきりしている。
松尾町1丁目の獅子舞は6年に一度のお練りにしか舞われない獅子舞だった。現在の東野の獅子のように。飯田下伊那における屋台獅子の最も古風なものだったといわれるが、既に途絶えて久しい。したがってその獅子舞が伝わっている正統な伝承地とも言えるのだろう荒井神社は。この松尾町1丁目の獅子は「松一獅子」と言われ知られていた。前掲書とは少し記述が異なるが、屋台獅子が盛んな飯田下伊那の獅子舞について企画展が平成22年に飯田市美術博物館で開催され、その図録(飯田市美術博物館『獅子舞』平成22年)に桜井弘人氏によって解説がされている。それによると松尾町1丁目の獅子舞が途絶えたのは昭和31年だったという。飯田の大火による頭の消失も影響したのだろう。演目として「道中」「舞出し」「うた」「鈴が舞」「おかざき」「ねらい」「おひょうひょろ」の7種だったという。大火後あらためて獅子頭を新調したようだが、焼けた屋台の代わりに「舵の付いたリヤカーに似た一つの前輪と、木枠の両側に固定された二つの後輪が付いていた」という(図録85頁)。実は荒井の屋台は鉄枠でできており、「いつこれにしたのですか」と聞くと「最初から」と答えられた。昭和8年当時のものにしては少し新しいようにも見え、これについては再確認したいが、おそらく伝授した荒井神社の獅子を、伝えた側の松尾町1丁目は大火後見ていたのではないだろうか。まさに現在の荒井神社の獅子屋台は、前輪一つと後輪二つで、前輪に舵が付いている。宵祭りでは上荒井の家々を回り、本祭りには町の中を回るという。段丘があるから、木枠の屋台では重くて無理があっただろう。そう考えると、当初から現在のような屋台を考案していたのかもしれない。
さて、現在の荒井神社の獅子舞では獅子は1頭のみである。ここでは各戸を回ることから回り切れないといって昭和26年に雌獅子を新調して増やした。それから2頭で回っていたようだが、もうずいぶん前から保存会の人手が減って1頭のみの奉納になっているよう。今日回っていた頭は雌獅子ということで、昭和26年に新調されたもの。昭和20年代にはこうして盛んになった獅子舞も、昭和30年代に青年会員が減少して獅子舞そのものも中断した時期があったという。もともと松尾町1丁目からは「道中」から「おかざき」までの5曲を教わったようだが、現在は神社での舞初めに「舞出し」が舞われ、あとは各戸を回る際は「おかざき」が舞われる。家によっては「舞出し」を加えるというが、いわゆる大神楽の舞である「鈴が舞」は、復活しようとしているが、今は舞えないという。したがって祭礼では「舞出し」と「おかざき」の2曲のみが舞われるようだ。あと「うた」についてはお祝いの席で舞うことがあるという。この地域では珍しい屋台獅子が、2日間にわたり地域を舞うわけで、その数は200戸ほどという。ちなみに区内の戸数は1500戸ほどという。
この日は午前8時30分から子どもたちによる相撲大会が境内で、また12時からはガラポン抽選会が行われていて、ずいぶん賑やかだった。さすがに戸数が多いだけに、「昔の農村のお祭りは、こんな光景だったのだろう」と、そんなことを思った。
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