売木村の国道傍で(2016.11.9)
一昨日「今年の新米が不味い」を記した。先週も今年何度も足を運んでいる売木村を訪れたが、いまだにハザに稲が掛かっている光景を何例も見かけた。どんな品種の米なのか解らないが、それにしても遅い。妻との話し合いの結論は、やはり稲刈りが遅くなったのがいけなかった、ということになった。天候が悪かったから、なかなか稲刈りができないということもあった。水はけが悪いという条件が、わずかな陽のあたりでは解消できず、結果的に遅くなった。早く刈ってもハザに掛けっぱなしよりは良いだろう、というのが我が家での結論だったのだが、まさかそれが米の不味さを呼んだとは…。「どちらが良かったか」という選択なのだが、やはり適した時期に稲を刈るというのも大事なポイントなのだろう。妻の介護に要す時間が多く、最近は米だけにあらず、野菜ものも不作、というか上手にできなかったりする。農業の難しさのようなものを体感する。そして「美味しくない」ということばを何度発したことか。先ごろはラフランスをいただいたものの、時を要してもなかなか柔らかくならない。リンゴにも同じようなことが。本当のところどうなんだろう、そんなことを思う。
初夏のことだった。会社の先輩のところを訪れたとき、先輩が「売木の米は不味い」と言う人に頼まれて、売木の人に米を売っているという話を聞いた。確かに高齢地だから昔なら美味しくなかったかもしれないが、今は温暖化のせいで、必ずしも高齢地だからといって不味いとは限らない。「今年の新米が不味い」でも触れたが、自分の家の米しか食べていないと、それが当たり前だと思ってしまう。ところがよその家の米を食べたら「味が違う」と気がつく。「美味しい」と評判の地域の米だって皆がみな美味しいとは限らないはず。いろいろな条件によって違うし、そもそも炊き方だって、あるいは水だって違いをもたらす。以前我が家の新米を妻が友人にあげて、その友人がいつも買っている親戚の米は「不味い」が我が家の米は「美味しい」と言ったとか。なぜ「不味い」のか、そんなことを究明したいほど、今年の我が家の米は残念な状態だ。よその米はどうなんだろう。
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