Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「飯山」の記憶・後編

2022-01-30 23:25:09 | つぶやき

「飯山」の記憶・前編より

 今日、飯山の町で一斉の雪下ろしがされたというニュースがあった。屋根の上には1メートル以上の雪があるようにうかがえた。前編で記したように、初めての飯山の冬は、雪に圧倒された印象だった。そう、我が家のあたりでは雪が降ったとしても30センチくらい降れば珍しい大雪である。それがひと晩で1メートル以上降る経験は別世界のこと。30センチ降るのは頻繁だった。昭和59年の冬にも降水量で前年と同じくらいの量を1月11日に記録。ひと晩1メートルは珍しくないという印象が記憶にしっかりと残された。

 先日グーグルのストリートビューで、当時暮らしていたあたりを閲覧してみた。周囲の様子はだいぶ変わったのに、当時も古い印象だった最初に住んだ建物が、今も残っていて、もちろん今も使われているようだ。近所に先輩の家があって、よく立ち寄ったことがあった。飲み会のあとに転がり込んだこともある。その先輩も今にしたら若くして亡くなられたが、飯山にしては珍しい瓦屋根の家だった。その家を探したが、もう無くなっている。毎日のように頻繁に訪れていた自動車修理工場も、ウェブ上で検索すると今もヒットするが、かつての場所にはそれらしいものは見えなかった。もう40年も前のことだから、当然だろうが、だからこそ最初に住んでいた建物が健在だっのは驚きだった。

 会社で寮を取得した3年目からだっただろうか、雪が続くと雪下ろしをした。年に2回くらいだったと思うが、その建物はガレージ風の物置のある低い1階と、玄関のある2階、そして住居で言う2階(3階)があり、屋根はかなり高い位置にあった。雪国ではよくある構造で、雪下ろしをして1階部分は雪の下になってしまうから、住居部は高い位置にある。この高い屋根に上るのは、当時は高所恐怖症ではなかったが、雪がないときには上れなかったかもしれない。休日は当時も自宅に帰っていたから、雪下ろしは平日にやったように思うが、定かではない。そのくらいの時間は与えてもらった。5年目になると、家に帰らずに飯山で休日を過ごすことも多かったから、休日に雪を下ろした。休日だから寮にいのはわたしだけ。ということで雪下ろしも一人で作業をした。安全のことを考えれば一人で雪下ろしをするのは好ましくなかったかもしれないが、選択肢はほかになかった。長く飯山の冬を経験したから、雪下ろしは得意でもあった。とはいえ、敷地の向こう側にも建物があるから、下ろす空間が無かったのも事実。それでいて寮の前にある道には消雪パイプが入っていなかったから、立地環境は良くなかった。わたしが飯山から異動すると、雪を掻く人が居なくなったといって、除雪機をかったほど。昭和60年以降は、わたしのいた5年間ほどの雪は珍しくなったようだ。

 

 

 さて、雪が降っていると暖かい印象の飯山だが、実は気温を見てみるとけっこう低い。グラフは飯山の最低気温を、わたしの暮らした時代から現在までまとめてみたもの。平成元年に-9.5゜という最低気温が記録されているが、それ以外はすべて-10゜以下。-15゜以下という日が珍しくない。ちなみに飯山の気温の横に示したオレンジ色は、わたしの生家のある地のもの。やはり-10゜くらいを記録するものの、飯山ほどではない。いっぽう最高気温もまとめてみると、こちらは生家のあたりより高い。加えて海に近いから湿度が高い、というわけで夏はとても過ごしづらかった。


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