思いっきり空気を吸い込むと・・・・
風のにおいが
少し変わって来たような・・・・。
日中の猛暑から
少し解放されて来たように思います。
やっと秋になるのですね~
暑いのは少々苦手です。
何故なら
汗の におい が気になるからです。
自分だけでなく
他人のも
非常に気になります。
耳が人いち倍良い私は
鼻も良いのでした。
わきが臭が遠くに居ても
風の向きによっては
においを感じとってしまうのでした。
くさいにおいにむせることもしばしば・・・。
そんな私は
今日、秋を感じるために
近くの県庁あたりを散歩していました。
平日でも
日本有数の観光地
結構な人出でした。
そんな中・・・
タバコが吸えない地域のため
缶コーヒーを購入し
山下公園の方に向かいました。
ベンチが開いていたので
腰かけて、缶コーヒー・・・
そこに
散歩しているある家族が
楽しそうに通り過ぎて行きました。
ゆっくりとした足並み・・・
おじいさん、
おばあさん、
若者夫婦とその子供・・・
子供は2~3歳くらいですか・・・
5人の家族に見受けられました。
「どてっ」と物音が・・・
突然、
子がこけて
泣き出してしまいました。
ワーワー泣く 子・・・
抱っこして慰める若父と若母、
微笑ましく見つめる老母と老父・・・
なかなか泣きやまない子・・・
きっと
4人の大人に甘えているんだな、
そう思いつつ
微笑ましく思うのでした。
そういえば・・・
私も小さい頃
よく転んだ思い出があります。
でも・・・転んでも・・・・
私の場合は
親に怒られるだけでした・・・。
記憶の図書館から
また・・・
思い出したくない思い出という本が
開かれようとしていました。
小学校の2年くらいのときの話・・・
以前からよく転んでいた私は
怒られると嫌だから
左足が痛いのを我慢していたのでした。
いつの頃からかは覚えていません・・・。
気付いた頃には
少し運動すると
左足首が強烈に痛み出し
激痛が走るのでした。
で、よく転ぶのでした。
でもじっとしていると
すぐに治ってしまい
痛くなくなってしまうのでした。
だから
どうすればいいか
当時の7歳程度の子供の頭では
わからなかったのでした。
今思えば
歩いていて
時間が経つと疲労がたまり
左足首が痛くなって
かばって歩いていたから
転びやすかったのでしょう・・・。
そんなある日のこと、
梅田に親とお出かけしていて・・・
その地下街で
転んでしまったのでした。
足をすりむいて
少し血が出ていたように思いますが
親に言われたことは
「前向いてしっかり歩かないからこけるんや
しっかり歩るけ、あほが!」
そう言われて
頭を叩かれました。
涙がぽろぽろ出てきて
更に親に罵声を浴びせられたのを覚えています。
それから2年ほどして
4年生になったころ
左足首が限界に達して
炎症を起こしてしまったのでした。
痛くて歩けなくなっていました。
病院に行って
何週間も治療しているのに
治らない・・・
結局、大学病院を紹介され
検査することになりました。
何度かの検査を経て結果、
成長期における左足首の変形と
診断されました。
変形しているから
痛くてよけい傾いて歩く
更に傾き、足が変形し「土踏まず」の部分が完全に変形し
俗に言う「扁平足」状態になっていたのでした。
矯正用の靴を作ってもらいました。
今で言う厚底ブーツみたいな黒の革靴。
衝撃吸収材等いろいろ技術が凝らしてありました。
補装具扱いのため医療機器に該当、
保険が効き2割負担で済んだようでした。
大人がそういう話をしていたのを覚えています。
で、歩き方を矯正し
矯正靴を履くようになったら
不思議と痛くなくなったのでした。
今の子供たちは
駿足とかいう運動靴や
スポーツシューズを履いていますが
当時の私は
野球のスパイク以外は
ビーチサンダルか
画鋲が刺さったら足の裏まで刺さるような
靴底の薄い100円ショップで売ってるような
ゴム留めの靴しか履いたことが無かったのでした。
体育の時間はいつも裸足でした。
結局、アスファルトなどの硬い地面に
子供の足がついていけず
成長期と相まって骨が変形して
痛みになっていたのでした
悲惨な思い出がもう一つ・・・
また記憶の図書館から本が出てきました・・・。
実は
子供の頃から
頭痛持ちで
10日に1回くらいの割で
頭が痛くなっていたのでした。
小学生の頃は
痛くても
「学校サボりたいだけだろ」と
頻繁に痛くなるために
両親に信じてもらえず
両親が健康で
病気一つしない人だったため
薬も常備してなかった。
そのため、
頭痛薬も飲めず
時々頭痛が我慢できず
学校のトイレで
吐いていたことがありました。
吐いているところを見られていて
学校を休めることはありましたが
病院の薬は飲ましてくれましたが
売薬は体に良くないと
飲むことを
させてくれませんでした。
ある時、
小学校の3年生の時だったか・・・
朝からあまりに頭が痛くて
「病院に行きたい」と言うと
「先週も休んで病院行ったのにまたか」と
無理やり学校に行かせられました。
1時間目が始まり
担任に頭が痛いと言って
保健室に行かせもらいました。
保健室で何度か吐いてしまい
すぐに家に帰れることになりました。
家に帰っても
頭痛が治らず
ひどくなる一方・・・。
夕方になって
トイレに行きたくなったので
布団から起き上がろうとすると
歩けなくなっていました。
その場に倒れたのでしょう
そこから記憶がありません・・・
気付くと
大病院の小児科病棟に入院してました。
急性脳膜炎とのことで
長期間入院したような
記憶があります。
脊椎から隋液を取るのが
非常に痛くてとてもつらかった。
退院して何カ月か経ちました。
その頃も
結構頻繁に
頭痛が起こっていて
親にはあきれられていました。
それでもあまり頭痛薬を飲ましてもらえず
大変苦労しました。
まだ小学校3年生の8歳の子供ですよ・・・。
普通、
子供がそれだけしんどがっていたら
薬で苦痛を和らげてあげるとか
自分の今の立場ならそうするけどなぁ・・・。
私の両親は
少し変わった大人だったのでしょう。
で、話を戻すと・・・
最初の入院から8~9か月くらいしてだったか
確か・・・・
4年生の夏の終わりか秋の頃
今ぐらいの季節だったような・・・
また、頭が痛くなってしまって・・・
同時に左足首も痛くて
毎日辛くて
どうしようも無かった時分でした。
親に言えば
怒られるし・・・
そんなある日
朝から頭痛で吐きまくって
また倒れてしまったのでした。
今度は
記憶が戻ったのは
救急車の中でした。
めちゃくちゃ揺れて
車酔いを併発していました。
もう体内に吐くものが残って無いのに
それでも頻繁にえずくので
診断した小児科医は
個室に入れ
24時間体制で診るように
スタッフに指示を出していました。
それが聞こえてくるから
目茶目茶不安で
怖くてたまらなかったのを覚えています。
10日ほどして
病状も回復してきて・・・
部屋が変わりました。
大人ばっかりの大部屋に変わりました。
当時は
病院側が部屋を変えたと思っていましたが
今、大人になって
事情が呑み込めるようになって
当時を思い出してみると・・・、
当時、個室病室の差額ベット代が
1日5000円で10日で5万円。
これは高額療養費で戻って来ないために
無理やり病院側に言って
変えさせたみたいでした。
病院側の意向なら
大病院なのだし
小児科病棟へ移すはず。
それが内科の大人病棟へ移すとは
どこまで9歳の子供を愚弄するねんな・・・
今、大人に自分がなってみて
自分の子供にそんなことするかな~と
正直信じられません。
でも事実なのです。
結局
それからも20歳になるまで
5回急性脳膜炎になり
入院しました。
現在42歳ですが
薬局で売ってる
バファリンやナロンエースなどの売薬を
年間で150~200錠は飲んでます。
大人になってから
ドクターに相談したことがあります。
「こういう売薬の頭痛薬を
飲み過ぎると
体に良くないのですか?」 と
その答えは
「確かに良い傾向ではない」 と・・・
「ただこれらの薬が効かず
副作用が出るようなことがあれば
その時は体に良くない何かがおこっている証拠なので
その時は注意が必要だな」
と またドクターは続けて言いました。
売薬が効かない時・・・・
そういう時が「急性脳膜炎の前兆の可能性」があるので
早期発見には役に立つかもしれないと。
結局、それを信じて
毎度、
頭が痛くなりかけたら
すぐに薬を飲み
早期に散らすことを
実践するようになりました。
それが良かったのか
それ以降約20年間
急性脳膜炎には罹患していません。
薬を飲みまくっていますが
別に体は大丈夫です。
タバコも吸ってますし・・・。
結局のところ
売薬を飲み過ぎると体に悪いという
私の親の言葉は
大きな間違いでした。
私が人体実験で証明しましたし。
私のあのつらかった小学生時代は
いったい何だったのだろう・・・・と
山下公園のベンチに座る今の自分の
目の前で・・・・
一向に泣き止まない子供を
あやす4人の大人を見て
少々羨ましく思うのでした・・・・。
話は変わりますが、
小学4年の入院の時、
個室病室に入れてくれたあのDrとは、
後に15年後、
私が大人になって
保健センターの職員として働くようになってから
市職員と病院長として出世されて
とある交渉事の席で再会するのでした。
珍しい名前の先生だったのと
髪型が個性的だったので
私は覚えていました。
Drが
当時子供だった私を
覚えているわけありませんから
そのことは
話さず交渉のお仕事をこなしましたが・・・。
。。。。。。
風のにおいが
少し変わって来たような・・・・。
日中の猛暑から
少し解放されて来たように思います。
やっと秋になるのですね~
暑いのは少々苦手です。
何故なら
汗の におい が気になるからです。
自分だけでなく
他人のも
非常に気になります。
耳が人いち倍良い私は
鼻も良いのでした。
わきが臭が遠くに居ても
風の向きによっては
においを感じとってしまうのでした。
くさいにおいにむせることもしばしば・・・。
そんな私は
今日、秋を感じるために
近くの県庁あたりを散歩していました。
平日でも
日本有数の観光地
結構な人出でした。
そんな中・・・
タバコが吸えない地域のため
缶コーヒーを購入し
山下公園の方に向かいました。
ベンチが開いていたので
腰かけて、缶コーヒー・・・
そこに
散歩しているある家族が
楽しそうに通り過ぎて行きました。
ゆっくりとした足並み・・・
おじいさん、
おばあさん、
若者夫婦とその子供・・・
子供は2~3歳くらいですか・・・
5人の家族に見受けられました。
「どてっ」と物音が・・・
突然、
子がこけて
泣き出してしまいました。
ワーワー泣く 子・・・
抱っこして慰める若父と若母、
微笑ましく見つめる老母と老父・・・
なかなか泣きやまない子・・・
きっと
4人の大人に甘えているんだな、
そう思いつつ
微笑ましく思うのでした。
そういえば・・・
私も小さい頃
よく転んだ思い出があります。
でも・・・転んでも・・・・
私の場合は
親に怒られるだけでした・・・。
記憶の図書館から
また・・・
思い出したくない思い出という本が
開かれようとしていました。
小学校の2年くらいのときの話・・・
以前からよく転んでいた私は
怒られると嫌だから
左足が痛いのを我慢していたのでした。
いつの頃からかは覚えていません・・・。
気付いた頃には
少し運動すると
左足首が強烈に痛み出し
激痛が走るのでした。
で、よく転ぶのでした。
でもじっとしていると
すぐに治ってしまい
痛くなくなってしまうのでした。
だから
どうすればいいか
当時の7歳程度の子供の頭では
わからなかったのでした。
今思えば
歩いていて
時間が経つと疲労がたまり
左足首が痛くなって
かばって歩いていたから
転びやすかったのでしょう・・・。
そんなある日のこと、
梅田に親とお出かけしていて・・・
その地下街で
転んでしまったのでした。
足をすりむいて
少し血が出ていたように思いますが
親に言われたことは
「前向いてしっかり歩かないからこけるんや
しっかり歩るけ、あほが!」
そう言われて
頭を叩かれました。
涙がぽろぽろ出てきて
更に親に罵声を浴びせられたのを覚えています。
それから2年ほどして
4年生になったころ
左足首が限界に達して
炎症を起こしてしまったのでした。
痛くて歩けなくなっていました。
病院に行って
何週間も治療しているのに
治らない・・・
結局、大学病院を紹介され
検査することになりました。
何度かの検査を経て結果、
成長期における左足首の変形と
診断されました。
変形しているから
痛くてよけい傾いて歩く
更に傾き、足が変形し「土踏まず」の部分が完全に変形し
俗に言う「扁平足」状態になっていたのでした。
矯正用の靴を作ってもらいました。
今で言う厚底ブーツみたいな黒の革靴。
衝撃吸収材等いろいろ技術が凝らしてありました。
補装具扱いのため医療機器に該当、
保険が効き2割負担で済んだようでした。
大人がそういう話をしていたのを覚えています。
で、歩き方を矯正し
矯正靴を履くようになったら
不思議と痛くなくなったのでした。
今の子供たちは
駿足とかいう運動靴や
スポーツシューズを履いていますが
当時の私は
野球のスパイク以外は
ビーチサンダルか
画鋲が刺さったら足の裏まで刺さるような
靴底の薄い100円ショップで売ってるような
ゴム留めの靴しか履いたことが無かったのでした。
体育の時間はいつも裸足でした。
結局、アスファルトなどの硬い地面に
子供の足がついていけず
成長期と相まって骨が変形して
痛みになっていたのでした
悲惨な思い出がもう一つ・・・
また記憶の図書館から本が出てきました・・・。
実は
子供の頃から
頭痛持ちで
10日に1回くらいの割で
頭が痛くなっていたのでした。
小学生の頃は
痛くても
「学校サボりたいだけだろ」と
頻繁に痛くなるために
両親に信じてもらえず
両親が健康で
病気一つしない人だったため
薬も常備してなかった。
そのため、
頭痛薬も飲めず
時々頭痛が我慢できず
学校のトイレで
吐いていたことがありました。
吐いているところを見られていて
学校を休めることはありましたが
病院の薬は飲ましてくれましたが
売薬は体に良くないと
飲むことを
させてくれませんでした。
ある時、
小学校の3年生の時だったか・・・
朝からあまりに頭が痛くて
「病院に行きたい」と言うと
「先週も休んで病院行ったのにまたか」と
無理やり学校に行かせられました。
1時間目が始まり
担任に頭が痛いと言って
保健室に行かせもらいました。
保健室で何度か吐いてしまい
すぐに家に帰れることになりました。
家に帰っても
頭痛が治らず
ひどくなる一方・・・。
夕方になって
トイレに行きたくなったので
布団から起き上がろうとすると
歩けなくなっていました。
その場に倒れたのでしょう
そこから記憶がありません・・・
気付くと
大病院の小児科病棟に入院してました。
急性脳膜炎とのことで
長期間入院したような
記憶があります。
脊椎から隋液を取るのが
非常に痛くてとてもつらかった。
退院して何カ月か経ちました。
その頃も
結構頻繁に
頭痛が起こっていて
親にはあきれられていました。
それでもあまり頭痛薬を飲ましてもらえず
大変苦労しました。
まだ小学校3年生の8歳の子供ですよ・・・。
普通、
子供がそれだけしんどがっていたら
薬で苦痛を和らげてあげるとか
自分の今の立場ならそうするけどなぁ・・・。
私の両親は
少し変わった大人だったのでしょう。
で、話を戻すと・・・
最初の入院から8~9か月くらいしてだったか
確か・・・・
4年生の夏の終わりか秋の頃
今ぐらいの季節だったような・・・
また、頭が痛くなってしまって・・・
同時に左足首も痛くて
毎日辛くて
どうしようも無かった時分でした。
親に言えば
怒られるし・・・
そんなある日
朝から頭痛で吐きまくって
また倒れてしまったのでした。
今度は
記憶が戻ったのは
救急車の中でした。
めちゃくちゃ揺れて
車酔いを併発していました。
もう体内に吐くものが残って無いのに
それでも頻繁にえずくので
診断した小児科医は
個室に入れ
24時間体制で診るように
スタッフに指示を出していました。
それが聞こえてくるから
目茶目茶不安で
怖くてたまらなかったのを覚えています。
10日ほどして
病状も回復してきて・・・
部屋が変わりました。
大人ばっかりの大部屋に変わりました。
当時は
病院側が部屋を変えたと思っていましたが
今、大人になって
事情が呑み込めるようになって
当時を思い出してみると・・・、
当時、個室病室の差額ベット代が
1日5000円で10日で5万円。
これは高額療養費で戻って来ないために
無理やり病院側に言って
変えさせたみたいでした。
病院側の意向なら
大病院なのだし
小児科病棟へ移すはず。
それが内科の大人病棟へ移すとは
どこまで9歳の子供を愚弄するねんな・・・
今、大人に自分がなってみて
自分の子供にそんなことするかな~と
正直信じられません。
でも事実なのです。
結局
それからも20歳になるまで
5回急性脳膜炎になり
入院しました。
現在42歳ですが
薬局で売ってる
バファリンやナロンエースなどの売薬を
年間で150~200錠は飲んでます。
大人になってから
ドクターに相談したことがあります。
「こういう売薬の頭痛薬を
飲み過ぎると
体に良くないのですか?」 と
その答えは
「確かに良い傾向ではない」 と・・・
「ただこれらの薬が効かず
副作用が出るようなことがあれば
その時は体に良くない何かがおこっている証拠なので
その時は注意が必要だな」
と またドクターは続けて言いました。
売薬が効かない時・・・・
そういう時が「急性脳膜炎の前兆の可能性」があるので
早期発見には役に立つかもしれないと。
結局、それを信じて
毎度、
頭が痛くなりかけたら
すぐに薬を飲み
早期に散らすことを
実践するようになりました。
それが良かったのか
それ以降約20年間
急性脳膜炎には罹患していません。
薬を飲みまくっていますが
別に体は大丈夫です。
タバコも吸ってますし・・・。
結局のところ
売薬を飲み過ぎると体に悪いという
私の親の言葉は
大きな間違いでした。
私が人体実験で証明しましたし。
私のあのつらかった小学生時代は
いったい何だったのだろう・・・・と
山下公園のベンチに座る今の自分の
目の前で・・・・
一向に泣き止まない子供を
あやす4人の大人を見て
少々羨ましく思うのでした・・・・。
話は変わりますが、
小学4年の入院の時、
個室病室に入れてくれたあのDrとは、
後に15年後、
私が大人になって
保健センターの職員として働くようになってから
市職員と病院長として出世されて
とある交渉事の席で再会するのでした。
珍しい名前の先生だったのと
髪型が個性的だったので
私は覚えていました。
Drが
当時子供だった私を
覚えているわけありませんから
そのことは
話さず交渉のお仕事をこなしましたが・・・。
。。。。。。