凸凹家族どっこい米国とオーストラリアとドイツとカナダで生きてます

タイ、マレーシア、オーストラリア、チェコ、英国、バングラデシュ、米国とカナダに住んで感じたことを、そのままお伝えします。

昭和回顧録(ニッポン)

2019-01-12 10:09:46 | その他の地域
最近日本のネットやテレビを見ているてよく目にするタイトルで、

「あの頃は良かった、懐かしい昭和の物」

なんて、回顧録みたいな昭和時代を賛美するような番組がありますが、
私はビンボーだったせいもあり、昭和は暗くて辛くて思い出したくもない記憶ばかりで、
賛美するほどのものではないと感じていますが、
賛美ばかりではなく、そんな時代もあったんだよと、
後世の子供たちに知ってもらうための備忘録として記します。


トイレがポットン式

都内でも、月に一度バキュームカーが回収に来るポットン式トイレでした。
バキュームカーが来るとものすごい匂いで、子供達は鼻をつまんで逃げ回ってましたが、
今思えばバキュームカーで働く人にとても失礼だった、子供でも。
列車のトイレもポットン式で、線路に垂れ流しです。
「停車中は使用しないでください」
なんて張り紙が貼ってありました。
道路の踏切で列車の通過を待っているとき、しぶきが飛んでくるのであわてて逃げるのが常でした。
車両には冷房なんてもちろんありませんから、夏は窓は全開、
天気は晴れているのに時々水しぶきが飛んできて、子供心に
「なんでだろー?」
と思ってましたが、今思うとゾッとします。


家の前にドブ

住宅地の道路脇には必ずドブがあり、生活用水はこのドブに垂れ流しでした。
すぐにヘドロが溜まるので、月に一度みんなでドブさらいすることが町内会の決まりでした。
遊び盛りの子供達は、貴重な日曜日に駆り出されるこの重労働で汚いこのドブさらいを、
ことのほか忌み嫌ってました。
解放型のドブですから、文字通りドブネズミやゴキブリがたくさんいました。
私が今でもゴキブリが苦手なのは、この頃のトラウマです。


木造家屋

ほとんどの家が木造モルタル建築でした。
窓もアルミサッシではなく、木枠に薄い板ガラスをはめただけのもので、
冬は隙間風がハンパではなかった。
夜寝ていると、顔に隙間風が当たるのが感じられ、
朝、布団の口元の息がかかるところが凍っていることもありました。
もちろん、羽毛布団なんて買えませんから、
寒さしのぎに座布団を何枚も布団の上に乗っけて寝ていて、めちゃくちゃ重かった。
私は昭和時代の一番辛い思い出が、この寒さです。ビンボー人にとっては寒さが一番辛い。
今でも、暑いのはいくらでも我慢できますが、寒いのは少しも我慢できません。


光化学スモッグ

高度経済成長真っただ中ですから、公害垂れ流し
子供のころ、学校が環八と青梅街道が近いこともあり、
よく光化学スモッグ注意報、警報が発令されていました。
ニュース番組の天気予報で、光化学スモッグ予報なんてやっていたくらいです。
今では聞きなれないこの言葉、詳しい事は知らんけど、
排気ガスに含まれる成分が光と化学反応を起こして猛毒のダイオキシンになる現象の事らしい。
これが頻繁に発生しており、特に、太陽光の強い夏場によく発生していました。
学校のプールで泳いだりしていると、これをより多く吸い込んでしまうので、胸が痛く苦しくなり、
大きく息が吸えない呼吸困難になることがよくありました。
それでも子供たちは元気に外で飛び回って遊んでいた、すごい時代です。


給食

学校のお昼ご飯は、給食と言って全員が同じものを配給されていた。
今のキャンティーンと違って、半ば強制的に教室で食べていた。
メニューも今とは全く異なり、
脱脂粉乳 = 生ぬるくてとても臭い、ブリキのバケツに入ってきて、ひしゃくですくってアルマイトの食器によそっていた。
この時点で既に食欲無くなる。
コッペパン = いつ作ったのかと思うほど硬くて、友達とケンカするときはこのコッペパンで殴り合うほど。
臭くてまずくて食べられないので、パンだけはお残しで持って帰ることが許されていた。私は毎日持って帰っていた。
みんな持って帰るので、パン持ち帰り用の布袋を持ってくるよう学校からの指定があったほど。
ちなみに、おかずはお残しが許されず、嫌いでどうしても食べられない子供は、
給食の時間が終わり、教室の掃除が始まっても、食べ終わるまでずーっと残されていた。
子供心にも「ヒドイことするなあ」と思ったので、上級生になって1年生の教室の掃除当番をする時など、
先生に内緒で、残された子のおかずをこっそり食べてやっていた。
おかず = 子供心にも、「どーすりゃいいのさ」と思うおかずが出ていた。
一番鮮明に記憶にあるメニューは、
クジラの竜田揚げ+ほうれん草のお浸し+おしるこ+上記の脱脂粉乳とコッペパン
たぶん栄養士の方が栄養を考えてのメニューでしょうが、組み合わせが信じられない。
また、これを先割れスプーンで食べるご自分の姿を想像してみてください。
 (先割れスプーン = スプーンの先端が三又に割れていてフォークの役目もする。
  全てのおかずをこれ1本で食べることが義務付けられていた)
クジラの竜田揚げはスジが多くて噛み切れない、給食の時間が終わってもまだ口の中でモグモグしてました。
これを先割れスプーンでは食べられないので、みな手で持って食いちぎってました。
なので、今でもクジラ肉は嫌い。捕れなくなってもかまいません私は。



洋服がでかい

なぜか、洋服がみんな大きくてダブダブのものを着ていた。
男も女も肩パットが入って、超ビッグサイズでヒラヒラのスーツやドレスを着ていた。
子供なんて、どーせ大きくなるんだからと、2サイズくらい大きいのを着させられていた。
学生服(学ラン)も丈が長くて、ズボンもボンタンなんて言ってものすごく太くて長かった。
女子も長くて太いスカートを履いて、裾を床にズルズル引きずって歩いていた。
今の超ミニスカートの女子高生には信じられないでしょう。
私はそんな当時から、洋服をだらしなく着るのが嫌いでしたので、
この太いズボンをわざわざ母親に頼んでミシンで細くしてもらい、今で言うスキニーにして履いていた。
学生服もボタンを開けてだらしなく着るのが嫌いだったので、
どんなに暑くても一番上のカラーまでキチンと止めて着ていた。
今なら妙に浮いてしまうかもしれないが、当時はもっと妙なヤツがいっぱいいたので、
別にどーってことはなかった。



<個人の見解です。諸説アリ>

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