大通りの松ノ木の下に延びる小道から、三丁ほど歩いたところであろうか。長唄のおっしょう様のところに花という、大体の白猫が住まいしていた。猫界では少しく年増のおばさんではあるけれども、それがために経験豊富な男衆の羨望の的とはなり、毎年のようにプロポーズを受けてはツンとハネッ返す気丈な女性である。大体の白猫というのは、全体として白猫のなかに淡いオレンジの縞が見え、特にその胸の辺りのチョッと真ん中から寄った所の縞が少しは鮮やかに出ていて、あたかも花のように広がっているものだから、家人が目ざとくそのように呼んだという。
花はマリで遊ぶのがお気に入りである。おっしょう様が手縫いしたゴルフボールほどの、白地に赤で星を刺繍したそのマリを、ひがな一日チョイチョイと両手でつついたり、勢いよく弾いてはモーレツに追いかける。糸と布とで作られたマリは板の間を転がっても音が無い。実家の幼少の記憶から、あのゴロゴロという騒々しい音に猫は惹かれるものだとばかり僕は思っていたが、花は違うようだ。試しにビー玉のなかの大玉をゴロゴロと転がしてやると花は怪しんで逃げていく。長唄の席ではアンモニャイトと化す花ではあるが、騒々しいものは嫌いのようだ。僕の幼少の記憶にある猫氏とは間逆だな。彼はあくまでも音楽を嫌い、大通りの騒音をこそ好んでいた。人も三様、猫も三様である。
休みの、天気のよい日に限り、僕は午睡のあと散歩に出るのだが、つい気も知れずこの小道に入り込んでいる。懐手をして何かと思案して行くと、道なり、おっしょう宅の庭先へと出る。そこで歩みを止めて、宅の縁側を眺めおると、雨戸の陰からプイと小さなマリが転がって、間もなく花がモーレツに走り込んでくる。マリをつかまえて、次は元来たほうへと弾き飛ばすと、花は尻尾を立てて餅のように真っ白な尻をプリプリと振って飛び出していく。その可愛らしさ、可笑しさに、僕はそこから離れられなくなり。すると奥から僕の姿を認めて、家人の誰かしらが手招きをされる。ご挨拶をしながら照れ隠しに片手でうなじを掻きつつ、僕は縁側にお邪魔をする。お掃除が行き届いているがために、花はよくよく廊下で後ろ足を滑らせて、稀には庭へと滑落しそうになるが。ために顔を傾けて歯を食いしばって前足をバタつかせる花の必死で真面目な仕草が可愛らしく。ついつい長居をしがちなのだが、それがいつしか縁になって、今はお年始をご一緒させていただくお仲間に加えてもいただいた。お孫さんの芽衣子さんは、おっしょう様に似て丸いお顔立ちの、はつらつとした声を持っておられる。この方とも親しくなれたのは、真に花のお陰である。我が家の店の使いの帰り、雨の日など番傘をさして水色にけぶるおっしょう宅のお庭の前を過ぎると、雨戸の向こうでペンペンと三味線の調子を合わせる音が聞こえ、おっしょう様の澄んだ唄いに続けて芽衣子さんのまだおぼつかない唄いが続く。僕は自然と足が止まってしまい、寒さにブルッと身が震えるまでぼんやりとそれを聞いていたりする。来年の春には、芽衣子さんも一人でお客の前に立つのだろう。今こうして番傘の下で雨に打たれるばかりの我が身上を思えば、なおのこと体が震える思いがする。
とある晴れの日の午後、僕はまた何とはなくて松ノ木の小道を辿っていたが。不意に脇からゴロニャアとドスの利いた雄猫の鳴き声がした。見れば、界隈では顔の知れた番長猫が、僕と同じ道を辿っていくようだ。毛長の雑種で、黒地に三毛らしい色が混じっている。この毛色は界隈でも若い衆のなかに見るものだから、してみると三毛というのではないらしい。もう毛が絡まったようにそこここで渦を巻いてはいるが、猫だけに不潔さは感じない。毛長でなければ、歌舞伎役者のような端正なたたずまいを見せるところだろう。番長は僕に向かって警戒心の強い眼差しを残しては、雑草のなかに身を隠しつつ歩いていく。チラリチラリと、お前まだついて来るのかというふうな嫌な顔をして見せるから、僕も嫌な顔をして見返してやるのだが、番長はお構いなしの様子だ。そのままズケズケとおっしょう宅の縁側に迫る。嗚呼僕はあんな近くまで一息には行けなかったのに。今もう番長は宅の縁側へ飛びあがろうかという勢いだ。またコロニャアとドスの利いた声で鳴く。これは見ものだなと、僕は懐手をして事態の行く末を見届ける気になった。過去幾たびか界隈の雄猫どもが、老いも若きもこうして花のもとを訪ねては、花の一括におじ怖気づいて退散したのを観てきたが。哀れ番長も面目を潰されることになるのだろうと予想して、僕は内心でウキウキしながら、離れたところで観客を決め込んだ。そら、花のお出まし。ところが花は、やんのかポーズで走り出てくるものと僕は思ったのだが、雨戸の陰からしとしとと歩み出てチョンと縁側に座ると、何も言わずに番長の顔を見下ろしている。相手に対してやや斜めに身を置くところが、花の気品を匂わせる。番長も番長で、地面にどっしりと座ったまま、ゴロニャアとも言わずに花の顔を見上げておる。界隈の猫衆を仕切ってきた実力がその背中からにじみ出ている。あらまぁこれはお見合いかなと、僕は少々残念に思った。しかしなるほど、花ともなれば、このくらいの御仁でなくては物足らないのだろう。僕の見ているのに気がついて、奥の障子の陰からおっしょう様が手招きをされるが、この状況ではお断りせざるを得まい。僕は片手をチョッと振って見せる。おっしょう様が軽くうなずかれるのを見て、僕は少しく残念ではあったが、まあ両猫のお見合いの席ともあらば、いたしかたなし。と、番長は何も言わないまま振り返り、その拍子に僕と顔が合って、お前まだいたのかというふうなムッとした表情を残して向こうの草むらへと去っていく。僕もムッとした顔で番長の行方を見遣った。宅の縁側へ目を返すと、花の姿も無い。代わりにおっしょう様のにこやかな笑顔がこちらを向いて、手招きをされている。僕はうなじに手をやって、いそいそと宅の縁側へと歩き出す。芽衣子さんが盆にお茶を持って来られる。これはこれは、ご馳走になろうじゃないか。僕は縁側へ腰をかけさせてもらって、芽衣子さんからのお茶をいただいた。
「さあどうぞ。」とおっしょう様も勧めてくださる。かたじけなく。
「めずらしいですのよ、花が。」と芽衣子さん。
「ええ。僕も初めて見ました。」と僕。ちょうどいい温もりのお番茶である。
花が雨戸の日陰でニャアと鳴いて、僕のところへ来る。頭を僕にスリスリして、鼻を鳴らして撫でを催促してくる。これは撫でざるを得まい。
「あんまり気位が高こうて、お婿さんもろうたこと無いもんな。」とおっしょう様。僕は苦笑い。花はおっしょう様の膝へ登る。
「手術はしないのですか。」と僕。芽衣子さんはおっしょう様と顔を合わせて微笑む。
「この子とな、インターネットで猫の動画を見ましてな。」とおっしょう様。「そのなかに、自分の玉が無くなっているのに気がついて、あっけにとられてしまうのがあってなぁ。」
「ああ。あれですか。」と僕は言い、小道の向こうの藪を眺める。
「手術はせなならんのが世の流れですけど、一度は子を産ませてやろうと思いましたんですわ。」とおっしょう様。花はもう寝入っている。芽衣子さんは花の可愛らしい寝顔を覗き込んで、頭をそっと撫でる。花の耳がピンピンと跳ねる。
「この子は来年、初舞台ですわ。見てやってくださいな。」とおっしょう様。芽衣子さんが顔を赤らめる。
「はい。店閉めてでも行かしてもらいます。」と僕。ホホホと芽衣子さんが笑う。僕も思わず微笑み返す。
ほどなくして、僕はあの番長猫が事故にあったと聞いた。若いのが走り出たのを止めに入って、はねられたのだという。ボランティアの人が駆けつけた時にはもう、息がなかったそうだ。花はそれからしばらく、マリで遊ばなくなった。縁側でおっしょう様の座布団の上に丸くなり、芽衣子さんに頭を撫でられなどしておる。時々は僕が代理を務めるが。たまに花のゴロゴロが聞こえると安心したものだ。花を囲んでお茶をいただきながら、しみじみと庭を眺めれば、はや紅や黄色の彩りとはなり。大きな柿の葉が落ちて、秋の雰囲気を添えている。花はマリで遊ぶようになり、それを見ておっしょう様が一番喜んでおられた。界隈では隻眼の黒猫があとを継ぎ、やってくる厳しい季節に向けて陣を整えている。
「あのね、この子、おなかが大きくなってきたようなの。」と芽衣子さん。
「え、寝ていて太ったのじゃないですか。」と僕。おっしょう様がホホホと笑う。僕は思わずうなじに手をやる。
「縁の下をウロウロしたり、天袋に上がったりもするんです。」と芽衣子さん。
「初めてじゃけ。人の子は経験があるけどな。どうしたもんか。」とおっしょう様。
「ボランティアの人に聞いてみましょうか。」と僕。
「ご苦労さんですけど、そうしてもらえますか。」とおっしょう様。
「じゃあ早速。店のはす向かいの家ですから。」お茶のお礼をして、僕はポンと膝を打って立つ。
「やるなぁ番長。」僕は呟く。思いのほか整然とした猫の社会に少なからぬ驚きを覚えつつ、サクサクと枯野を分けて小道に出る。めずらしく早足になりながら僕はその家へと向かった。行く手の彼方に青空を背景にして高く盛り上がる雲が、あの日縁側に座って花を見上げる番長の姿にも見えた。