引揚げ船 記念日
昭和20年8月15日。ついに終戦を迎え、日本が復興へと新しい第一歩を歩み出した一方で、終戦後も、さらに過酷な重労働を強いられた人々がいました。旧満州をはじめとする中国、樺太、千島などに残された人々で、その数、兵隊350万人、民間人310万人のあわせておよそ660万人ともいわれていました。舞鶴港への引揚は、昭和20年10月、祖国をめざす人々を乗せて、引揚第一船「雲仙丸」により2100人の引揚者が入港したのを皮切りに、昭和22年に旧ソ連からの引き揚げがピークを迎え、約20万人が83隻の船で運ばれ舞鶴の地を踏みましたが、昭和25年、旧ソ連で捕虜となり極寒のシベリアで抑留されている人々は帰国がままならないまま、ソ連からの引揚が中断しました。引揚事業が再開された後は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚港として、引き続き引揚者を受け入れました。昭和33年に最後の引揚船「白山丸」に乗って引揚者472人が日本の土を踏んでようやく舞鶴港でも引揚事業は完了。結局、最終的に舞鶴だけで66万余人もの引揚者を受け入れたことになり、終戦から13年。舞鶴は最後まで引揚者に手を差し伸べました。
連日ラジオで 舞鶴港への引揚げ船の二ユースが流れてました(私は当時8才~13才でした)
あれから60年の年月が流れました。
今朝6時に起きた 今朝暖かい朝である。
昨日の万歩計 10,428歩
今朝の血圧 上119 下72 脈90
薬(デパス)切れ4日目 離脱症キツイ!
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昭和20年8月15日。ついに終戦を迎え、日本が復興へと新しい第一歩を歩み出した一方で、終戦後も、さらに過酷な重労働を強いられた人々がいました。旧満州をはじめとする中国、樺太、千島などに残された人々で、その数、兵隊350万人、民間人310万人のあわせておよそ660万人ともいわれていました。舞鶴港への引揚は、昭和20年10月、祖国をめざす人々を乗せて、引揚第一船「雲仙丸」により2100人の引揚者が入港したのを皮切りに、昭和22年に旧ソ連からの引き揚げがピークを迎え、約20万人が83隻の船で運ばれ舞鶴の地を踏みましたが、昭和25年、旧ソ連で捕虜となり極寒のシベリアで抑留されている人々は帰国がままならないまま、ソ連からの引揚が中断しました。引揚事業が再開された後は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚港として、引き続き引揚者を受け入れました。昭和33年に最後の引揚船「白山丸」に乗って引揚者472人が日本の土を踏んでようやく舞鶴港でも引揚事業は完了。結局、最終的に舞鶴だけで66万余人もの引揚者を受け入れたことになり、終戦から13年。舞鶴は最後まで引揚者に手を差し伸べました。
連日ラジオで 舞鶴港への引揚げ船の二ユースが流れてました(私は当時8才~13才でした)
あれから60年の年月が流れました。
今朝6時に起きた 今朝暖かい朝である。
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