藤原伊周の失脚
974 藤原北家九条流の藤原道隆と高階貴子の間に生まれる
985 元服し従五位下に叙爵
986 一条天皇の即位式の日に昇殿 昇進する
990 5月に父・道隆が摂政に就任 10月中宮に妹定子が立つ
991 参議に任ぜられて公卿に列す
992 正三位・権大納言 舅の源重光から譲
994 内大臣に昇進 : 強引な伊周への官位引き上げは詮子や道長の不満の種
995 藤原隆家979-1044権中納言就任@17才
・一条天皇が「藤原道長966-1028」と「藤原伊周974-1010」の優劣を決めかねていた
・一条天皇の母「藤原詮子」は関白を決めかねている一条天皇に対して自分の弟である「藤原道長」を関白にするよう強く推薦
・その気迫に押された一条天皇は「藤原道長」を「内覧」に任命
・その後、藤原道長は「右大臣」へと昇進、位についても内大臣「藤原伊周」を越える事
・関白就任競争に勝って位も越えたとは言っても、「藤原伊周」は内大臣であり一条天皇のお気に入り「藤原定子」の兄
・こういった状況から「藤原道長」と「藤原伊周」との不仲は決定的となり、2人の間には不穏な空気が流れ始めます
5/12 隆家、伊周兄弟の父・道隆が糖尿病悪化で死亡
道兼が関白就任するが七日後に死亡し、後継の関白は道長
藤原道長の従者と隆家の従者が争う : 七条大通り有合戦
996 1月16日の未明、内大臣「藤原伊周」とその弟で中納言の「藤原隆家」は、部下に命じて「花山法皇」を弓矢で威嚇射撃
その矢は「花山法皇」の服の袖を貫通し、驚いた「花山法皇」は命からがら逃げ帰るという事件が起こる
実は「藤原伊周」には当時好きな女性がおりまして、そのお相手は「藤原為光」の3女で当時美人だと評判だった「三の君」でした。 そして「藤原伊周」は大好きな彼女の家に夜な夜な通い続けていたんですが、その家には「三の君」ほど、美人ではない4女の「四の君:藤原儼子」も同居していて、「花山法皇」はこの「四の君」の所に通っていたのです。しかし「藤原伊周」は、「花山法皇」が「三の君」に通じている・・・と勘違いし、弟の「藤原隆家」の協力もあって、明け方「四の君」の所から帰宅する「花山法皇」を弓矢で威嚇したと言う事なのです。By 栄花物語
「花山法皇」が通っていた「四の君」は、子供を身ごもったまま早くに亡くなってしまった最愛の妻の妹でした。花山法皇は最も愛した妻の面影を「四の君」に見たのかも知れません。
「花山法皇」は出家した身でありながら愛人の所に通っていると言う不謹慎な行動が広まり、 恥さらしになる事を恐れて、この事件を内密に済ませようとしたらしいのですが、その日の内には朝廷中に知れ渡る事となってしまいます。
その後、「花山法皇の従者が2人その時に射殺された」とか、「一条天皇の母親である藤原詮子がかねてから病に伏せっており、その理由が藤原伊周が呪ったせいだ:呪詛事件」とか、さらには「天皇だけにしか行う事が許されない秘法『大元帥法(だいげんすいほう)』の儀式を藤原伊周がひそかに行った」などの噂が広まる
996 4月24日、「藤原伊周」と「藤原隆家」の兄弟はそれぞれ出雲、大宰府に流罪が決定します(長徳の変)。
そしてこの事件により中宮「藤原定子」は出家し、結局「藤原伊周」も覚悟を決めて判決に従う事にします。道隆の死後、権力を振るった藤原伊周の・・・なんだか、あっけない幕切れとなります。それにしても中宮・定子が気の毒でなりません。
997 「藤原伊周974-1010」と「藤原隆家979-1044」の兄弟は詮子(東三条院:一条天皇の母)の恩赦により帰京
998 7月5日 御堂関白記(@陽明文庫)に記載されたもっとも古い行事 : 相撲を止めにして寺でお経を読む---疫病対策
天皇の指示による宮中の出来事を記載
藤原行成972-1027の息子が天昇
999 定子977-1001(清少納言が出仕)が敦康親王999-1019を出産
1000 1月1日から毎日の行事が日記に記載ある@御堂関白記 道長35才
1月1日 藤原行成972-1027(天皇の秘書官長:蔵人頭)は道長邸→東三条院→彰子の舘
→役目は要人の取次
道長の娘・彰子(紫式部が出仕)は一条天皇の中宮
定子は皇后となる By道長の策略で彰子を中宮にする為 : 一帝二后
1001 定子が第三子(媄子内親王1001-1008)を出産するが翌日死亡
「誰もみな消えのこるべき身ならねど ゆき隠れぬる君ぞ悲しき」By伊周
1007 伊周・隆家兄弟が伊勢の武士平致頼を抱き込んで、金峰山へ参詣中の道長暗殺との噂
彰子が一条天皇の第二皇子敦成親王を産む
1009 中宮と新生の皇子に対する呪詛事件が起き、伊周の叔母高階光子が入獄
1010 伊周は失意の中死亡
死後、その邸である室町第は群盗が入るほど荒廃し果てた
1011 一条天皇崩御 三条天皇即位
道長の娘・妍子が三条天皇の中宮
1013 隆家の眼病悪化し実資の勧めで大宰府へ
1015 隆家が大宰府権師
1018 道長栄華を極める
1019 女真(中国の騎馬民族)50隻が対馬侵攻(刀伊の入寇) :対馬全滅
女真が壱岐侵攻 :藤原理忠勢全滅
女真兵3000が筑前上陸 ⇔ 藤原隆家100隻水軍が撃退
撃退した隆家、藤原蔵現などへの恩賞なし → 藤原実資反論
蔵現は対馬守の恩賞が与えられる → 子孫は肥後の菊地氏:隆家を末代まで尊敬する
1020 隆家は帰京するも中納言のまま 最終官位は前中納言正二位
紫式部
987 紫式部(970?生誕)は倫子に出仕?
出仕:天皇の后と有力貴族との取次
身の回りの漢書を読破
995 藤原道長はトップの座・左大臣につく--兄の相次ぐ病死
数多の年上の公卿から無視される始末---外祖父案
998 紫式部970?-?は藤原宣孝(?-1001 また従兄弟)と結婚
999 藤原賢子999-1082歌人 誕生
このとき一条天皇の中宮・定子は出家の身--新たな中宮を迎えるべきと説得したのが藤原行成
1000 彰子が一条天皇の中宮になるが天皇は定子を寵愛
1001 宣孝病死 : 源氏物語執筆のきっかけ
消えぬ間の 身をも知る知る 朝顔の 露と争ふ 世を嘆くかな
数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
1005 宮中彰子の元に出仕 --- 一条天皇を彰子の元へ来させる作戦
宮中の侍女とともに歌を遊ぶ
1008 紫式部日記執筆 2010年迄
源氏物語文献初出:執筆は蘆山寺
紫式部の曾祖父堤中納言 藤原兼輔(877-933 百人一首 権中納言)の寓居跡
紫式部の祖父・藤原雅正の代に没落
彰子懐妊:のちの後一条天皇
1010 藤原妍子994-1027が三条天皇の中宮
1018 藤原威子1000-1036が後一条天皇の中宮
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なし
藤原盛子?-943
┣藤原伊尹924-972
┣藤原兼通925-977
┣藤原兼家929-990
┃ ┣藤原道長966-1028
┃ ┃ ┣彰子988-1074 :一条天皇中宮
┃ ┃ ┣妍子994-1027 :三条天皇皇后
┃ ┃ 源倫子964-1053
┃ ┃
┃ ┣藤原道兼961-995
┃ ┣藤原超子954-982冷泉天皇女御、三条天皇生母
┃ ┣藤原詮子962-1001円融天皇女御、一条天皇生母
┃ ┃ ┣一条天皇980-1011
┃ ┃ 円融天皇959-991
┃ ┣藤原道綱955-1020
┃ ┣藤原綏子974-1004-三条天皇尚侍
┃ ┣藤原通隆953-995(中関白家)
┃藤原時姫?-981 ┣藤原伊周974-1010 :長徳の変で出雲へ流罪
┃ ┃ ┣藤原道雅992-1054 中関白家が没落する中で成長 官途にも恵まれず「荒三位」と渾名された
┃ ┃ ┣娘 :藤原道長の次男・頼宗の妻 摂関家に伊周の血筋を残す
┃ ┃ ┣周子 :彰子に出仕
┃ ┃源致明の娘
┃ ┣藤原定子977-1001 :一条天皇皇后
┃ ┃ ┣脩子内親王997-1049 独身
┃ ┃ ┣敦康親王 999-1019
┃ ┃ ┣媄子内親王1001-1008
┃ ┃一条天皇980-1011
┃ ┣藤原隆家979-1044 :長徳の変で大宰府へ流罪
┃ ┃ ┣長男良頼 正三位権中納言 ---- 池禅尼は子孫
┃ ┃ ┃ ┗ 参議源基平の妻
┃ ┃ ┃ ┗源基子 後三条天皇女御
┃ ┃ ┣娘 三条天皇の子敦儀親王の妻
┃ ┃ ┣娘 参議藤原兼経の妻
┃ 高階貴子 ┣藤原経輔1006-1081
┃ 源兼資娘 ┣藤原師家1027-1058
┃ 藤原資業の娘 ┣藤原家範1048-1123
┃ 藤原泰憲娘┣藤原基隆1075-1132
┃ 藤原家子 ┣藤原忠隆1102-1150
┃ 長忠娘┣藤原信頼1133-1160
┃ ┣基成
┗━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┣近衛基実室
┃ 公子
┣藤原安子927-964 村上天皇中宮
┣源高明室
┣藤原怤子 - 冷泉天皇女御
┏藤原師輔909-960
┃ ┣藤原公季(閑院流祖)
┃康子内親王
藤原不比等659-720 ┃
┣藤原房前681-737(北家祖) ┃
┃ ┗藤原真楯715-766 ┃
┃ ┗藤原内麻呂756-812 ┃
┃ ┗藤原冬嗣775-826 ┃
┃ ┗藤原長良802-856 ┃
┃ ┗藤原基経836-891 ┃
┃ ┗藤原忠平880-949┛
┗藤原武智麻呂680-737(南家祖)
┗藤原巨勢麻呂?-764
┣藤原貞嗣759-824
永手娘┗藤原高仁-835
┗藤原保蔭
┗藤原道明856-920
┗藤原尹文
┗藤原永頼
┗藤原能通
┣藤原実範
藤原元尹娘┣藤原季綱
高階業敏娘┣藤原実兼1085-1112
通宗娘┣藤原通憲1106-1160(信西)
源有家女 ┗貞憲
┗貞慶1155