清少納言に関する調査結果
撮影:磨弧御前殿 京都・時代祭りにて
生年は964年頃で、没年は1020年頃との説であるが不明であるらしい。紫式部が970年-1010年くらいであるから、ほとんど同世代。ちょこっと年上。
歌人清原元輔(三十六歌仙)の娘で、18歳の時に橘則光との間に則長を産む。紫式部の結婚は35歳くらいのときなので、比べると早っ。
28歳の頃、一条天皇の中宮(第一夫人)定子18歳(藤原道隆の息女)のもとに宮仕えを始め、清少納言という名を賜る。紫式部は一条天皇の中宮彰子のもとへ宮仕えた。
『枕草子』を執筆。その一部は995年頃に宮中で広く愛読される。
その頃、関白道隆は死去し、代って弟の道長が台頭し、右大臣に任ぜられ、「氏の長者」となります。1000年、定子は皇后に棚上げされ、中宮の地位には道長の息女彰子がつきます。これにより定子の一族は衰退していきます。
同年、定子は24歳の時、第二皇女を出産しますが、翌日崩御し、じ、この頃清少納言も宮仕えを退き、父元輔の荒れた旧居に住み、わびしい生活を送った思われる。
『枕草子』の執筆は定子の死後にも継続され、1010年頃完成したらしい。
そして、紫式部が彰子に出仕するのが、1005年頃です。
華やかな宮廷生活にあこがれた清少納言は女房として身を置き、枕草子の中に、宮廷社会のしゃれた、かっこいい男と女の関係と、定子を中心としたさまざまな出来事を記しています。一方、源氏物語では、男と女の関係を、そんなしゃれたものではない、どろどろしておぞましいもの・・・として記しています。(言いすぎ・・?)世の中の辛さを抱えて出仕し、彰子とその父道長に接して、心を開いていく紫式部と、宮廷の華やかさにあこがれた社交的な清少納言とのおおきな違いが覗えます。
源氏物語の「あわれの文学」に対して、枕草子は「をかしの文学」といわれ、「笑ふ」という語がいっぱいでてきます。♪♪